咲きやすい場所で咲く

 社会人はたくさんの我慢や努力をしなくてはいけないと思い込んでいた。もちろんそれも必要だろうが、今は我慢や努力よりも「居心地の良さ」「気楽さ」「できること」を重視した方が楽しく生きれるなと感じる。


 実際新卒で働いてみて「我慢や努力」はひたすら苦痛だった。お金や安定を優先した結果得意ではない仕事をする道を選んだが、精神的に辛かった。自分には合っていなかった。結局社会人も「自分の特徴や性格に合った場所でこそ輝ける」と実感したし、その点では小中高大の今までの生活となんら変わらないじゃないかと痛感した。


 人生を通してどの時期も「自分らしさ・個性」が大事であるのは明白なのに、なぜ社会人になるタイミングで「我慢・努力至上主義」だと思い込んでしまったのか。主な原因は就活だろう。

 就活はどうしても「受かりたい会社に受かること」がゴールになってしまうため、判断・行動基準が「会社にふさわしい人材の振る舞い・言動か」になる。加えて、訳のわからない就活のマナーなるものが存在するため全員が似通った服装・髪型・話し方になる。その結果、毎年40万人ほどが4月ごろになると自分を取り繕って「型はめ合戦」をするのだ。よく考えるとメチャクチャである。
 社会人になるためのファーストステップに自分を取り繕わないといけない儀式があるが故に、我慢・努力マインドが身についてしまうのだと思う。


 しかし、ちゃんと周りを見てみると「仕事とは適材適所で、自分らしく働けることが大事なのだ」と実感する。

 例えばタレント。私はお笑い芸人のかまいたちさんやアンガールズさんが好きなのだが、そんな彼らでもアンチがいる。どんなに彼らで笑わせてもらって最高だと思っても、そんな彼らでさえアンチがいると考えると、どんなに我慢や努力をしようが無理なものは無理なのだと感じる。そして彼らのようなテレビでよくみるタレントは、もちろん努力もしているだろうが、笑いのポテンシャルがあってこそなれているだろう。
 スポーツ選手なんかも言うまでもなくポテンシャルや才能があってこそなれる職業だ。これまでの人生で自分らしさや個性を活かして輝いている大人達をたくさん見てきたのに、それをないがしろにして職業選択をしてしまったことを今になって後悔している。(割り切るのが合う人もいるだろうが)


 思い返すと、中学生の時にすでに我慢や努力という感覚に違和感を感じたことがあった。

 中学2年生の時、担任の女性の先生が「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を座右の銘にしていた。その先生は胸が大きく、よく体のラインが出るニットや派手な色の服を着ていた。また気が強くて、ヤンキーめな生徒にも自分から関わるタイプで、見た目も言動も自己主張の強い先生だった。今思うと、先生自身は置かれた場所で咲いていると思っていたのかもしれない。
 しかしその先生は差別をしていた。お気に入りの生徒とそうじゃない生徒をはっきり分けていて、中学生の自分でもそれがわかるほどだった。自己主張ができない暗い子には厳しくて、隣のクラスに聞こえるくらいの大声で人格否定的な発言をすることが何度かあった。

 当時の私はそれに強い嫌悪感を感じた。怒られている生徒への同情もそうだが、今思うと我慢や努力なんてどうでもよくなるほどの社会の理不尽さを感じたからだろう。
 「置かれた場所で咲きなさいって言うくせに、先生自身生徒の居場所を作る努力をしていないじゃないか」と悲しくなったのだ。結局「置かれた場所で咲きなさい」という言葉は、たまたまその場所で咲くことができた人が自分の行動を正当化するために言う結果論のポジショントークなのかもしれない。

 悲観的な感じになってしまったが、私はこれまでの経験を前向きに捉えたい。社会人としての実体験、過去に感じた違和感を踏まえ、やはりもっと自分らしさや個性を大切に生きていきたい。

 「置かれた場所で咲きなさい」という言葉は人によっては自分を苦しめる呪縛になる。
 我慢や努力はもちろん大事だが、これからはもっと「居心地の良さ・自然体でできること」を大事にしたい。


(そのための自己分析がとても難しい、まあやるしかない)

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