ぐだぐだ過ごす罪悪感

 休職をして時間的な縛りのない生活を送っている。気分の浮き沈みはあるものの明日の時間を気にせずに過ごせる日々はとても快適だ。メンタル的に楽な気持ちで過ごせている。世の中に休職制度があって助かった、作った人に直接会って感謝したいくらいだ。

 メンタル的に楽に過ごせている一方で罪悪感を感じる瞬間もある。「時間の使い方」に対してだ。ぐだぐだした生活をしている自分に対して「こんな時間の使い方でいいのか」「早く社会復帰して誰かの役に立たないといけない」と思ってしまうことがある。特にベッドで一日過ごした日や暴飲暴食をした日なんかは強く思う。

 休職するまでの人生ではあまり「時間の使い方への罪悪感」は感じなかった。これは多分「規則的な生活(=時間の制限がある生活)」をしていたからだろう。

 幼稚園から高校まで常に規則的な生活が求められた。始業時間が決まっていたので毎日早起きをしないといけなかったり部活動もあったので、強制的にTHE・健康的な生活を送れていた。大学はそこまで時間の縛りはなかったものの、それでもカリキュラム通りに通わないといけなかったりアルバイトがあったため、健康不健康は別として規則的な生活は送れていた。(大学の夏休みもアルバイトがあったので結局ある程度規則的に生活できた)


 規則的な生活をしていた時期は「自分がやっていた自由時間の使い方」に罪悪感はなかった。そう考えると、罪悪感を感じてしまうような時間の使い方をしてしまうのは、自分のせいではなく環境のせいなのではないかと思う。置かれた環境(時間的縛りがあるない)によって、主体的な時間の使い方が左右されるのではないだろうか。


 規則的な生活をすると「罪悪感を感じない自由時間の過ごし方」ができる理由は主に二つあると思う。

一つは、生活リズムが一定になること。
規則的な生活を送れることがメンタルの安定をもたらし、それがアクティブで有意義な時間をしようという前向きな気持ちに繋がるのだと思う。

もう一つは、時間の有限性を感じること。
時間が制限されること(=規則的な生活を強いられること)で逆に「残った時間を有効に使おう」という気持ちになり、それもまたアクティブな時間の使い方に繋がるのだと思う。

 実際、新卒でまだ働いていた時は「帰ってから家事とか色々したら2時間くらいしか自由時間ないじゃん!うわ完全に社畜じゃん」と絶望した一方、それがきっかけで、前々からやりたかった英語勉強を通勤・昼休みを使って2時間するようになった。(よく頑張った)


 環境がメンタルの浮き沈みに影響し、それが自由時間の使い方に繋がるのだろう。そう考えると、ぐだぐだした生活をしている今の自分も少し肯定できる。自分のせいじゃなく環境のせいなんだと思える。(ただの現実逃避かもしれない)


 本来人間が持っている時間に対しての価値観はこの程度なのかもしれないとも思う。ベッドでぐだぐだして過ごす自分に罪悪感を感じるが、本来はこのくらい適当に時間を過ごすことが、時間の拘束がなかった縄文時代くらいの人にとっての「普通の過ごし方」なのではないだろうか。

 時間に縛られた現代人(園児から社会人、老人ホームの人まで全て)が環境によって無意識のうちに「時間を有効に使おう」と思うだけで、本来は三大欲求くらいの行動力しかないんじゃないか。もしそうなら今の自分はかなり人間らしく生きてると思える。noteは余暇として、ほかは寝るか食べるかYouTube見るかしかしてない。

 ぐだぐだ過ごしてしまう自分に罪悪感を感じるのは、もしかしたら異常な思考なのかもしれない。「時間に縛られた生活が当たり前になってしまって、自由時間の使い方の基準が上がっていないか、感覚がマヒしていないか」と思う最近である。休職が終わり社会復帰したとしても、ぐだぐだできる人間でいたい。 





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