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西村賢太「戸締り用心」(尖閣諸島問題 2012年10月)

 私は西村賢太のファンなので、50年後も100年後も、彼の作品が読まれてほしい。
 西村賢太が人生を棒に振る思いで復興した藤澤清造の作品も、できれば読まれていてほしい。

 そのためには、50年後にも100年後にも、日本語がなければならない。

 そのためには、まず日本がなければならない。

 勿論、他国に従属していようがいまいが、愛国心から漢字を廃止すべきだと言う人はいたし、反対に、日本が占領されていた7年のうちに日本語が廃止されなかったというのも事実だ。

 が、日本がなくなれば日本語がなくなる可能性は自ずと高まる、というのはモンゴルやウィグルを見てみれば、明かだ。
 子供の頃学校で「最期の授業」というのを習った人もいるだろう。

 だから、日本をセーブしてキープしてホールド(=保守)しなければならない、と思うのだが、そのためには、悪弊を改めたり、守るべきところは守ったり、しなければならない。
 よく、「保守 = 何んでもかんでも守る、何が何んでも守る、変えない!」と思っている人がいるが私はそう考えないし、「保守 = 特定の国々に批判的」というのは上っ面でしかないと思う。

 …で、西村賢太が私が考えるところの保守だったかというと、そんな話は全くしたことがないので知らない。
 大正~昭和の文学があんなに好きだったぐらいだから、保守と言って差し支えないと個人的には思うが、同じ近代文学愛好者にもそうでない人もいようから、これは一概には言えない。

 私にはっきり言えるのは、やたらと日本を持ち上げるようなことも、反対にやたらと日本を貶すような貶めるようなことも、一切言っていなかったことだ。

 ただただ現実を直視するリアリストだったと思う。
 西村賢太を褒める人がよく言う、「ありのまま」というやつだ。

 ありのままに北朝鮮の拉致が怖いと言え、トランプが大統領になった途端首脳会談のためにやって来た総書記を見ればありのままに「出てきたぜ、おい、トランプすげえな」と言える。
 ヘタに学歴だけ高くても、何かに目が曇ってこういうことの見えない人がいる。彼の恰好いいところだ。

「俺、右とか左とか、よく分かんねんだ。何あれ?」

 右だ左だ、社会が云々、と知識だけひけらかして小利口に見せたがる者もいれば、意識ばかり高くとも肝心要の現実が見えていない、或いは何んのためにか意地でも目を開こうとしない者もいる。
 彼はそういうこととは本当に無縁だった。
 
 また、社会が云々と言う人は、往々にして上手くいかないことを何んでも社会(=自分以外全員)のせいにしがちだが、あれほどの生い立ちであっても彼にそういうところが全くなかったのは、「右とか左とかよく分かんねえ」理由の一つだったろう。
 兎に角必死で人生を続けてきた、ということでもある。
 彼の小説を読めばいたるところで出くわすのが「自業自得と云い条」というフレーズ。彼は、まず「自業自得」と解っているのだ。

社会や政治を呪おうなんぞ「できない」んじゃなくて、
はなから「しよう」とも思ってねえんですよ…(多分)

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