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【身辺雑記(兼美術の秋)】「俗世にまみれた営み」と「俗世から離れた営み」

~心を解き放ち、心を遊ばせる、現代の「逍遥遊」~

― 現代的隠者に思いを馳せる ―
クスミエリカ「世捨て人の庭」

― 幻想とリアルが溶け交じる現代の桃源郷 ―
クスミエリカ「現代装置」


1.身辺雑記(「俗世にまみれた営み」⇒麻雀編(九蓮宝燈))

欲望の誘惑が多い俗世間では、欲望に溺れて堕落してしまう人が後を絶ちません(^^;

適度な欲望は、人間の現世での幸せをもたらしてくれますので、例えば、仏教では、「小欲知足(※)」を説いていましたね。

※:
欲を少なく満足する事を知る、という意味です。
仏教は「欲を滅して、無くしていく」という教えだと思っている方は多いのではないでしょうか?
しかし、みなさんが欲を無くしてしまってたら経済は回りませんし、人の為に行動する!という欲も否定する事になってしまいます。
何か無気力な世捨て人が沢山出来てしまうイメージですね。
仏教の伝えたい事は「欲のコントロール」です。
「欲を滅する」と使われますが、この「滅」の原語は「ニローダ」と言います。
これは「制御する」「コントロールする」といった意味があります。
つまり欲には“良い欲”と“悪い欲”があり、なるべく良い方向へコントロールしてあげる事が大切になります。
少欲知足を正しく解釈すれば「悪い欲を少なくし良い方向に向ける事で、ココロが満たされる事を知る」となります。

お釈迦様が悟りを得ることが出来たのは、欲望が苦しみの原因になることを見抜き、苦しみの無い世界を目指したからであり、欲望が悟りの原動力になりました。

私たち人間の世界は、確かに、欲望だらけですが、その欲望も、全て、私たちの心の中から出てきたもので、作り出されたものということを理解すれば良いのです。

欲望に振り回されることなく、少しの欲望で満足することを知る。

しかも、その欲望でさえ、心の中から出てきた幻影であることを覚ることが俗世間で生きていくための秘訣なんでしょうね。

欲望に溺れてしまったら、這い上がることが困難になります(^^;

かと言って、欲望を全部捨てることも無理なこと( 一一)

欲望をコントロールすることは大切な修行なんですね(^^)

俗世間での欲望は、堕落する原因になりますが、上手く使えば、人間として幸せになるための重要な道具になり得ます。

さて、麻雀という言葉を耳にすると、眉をひそめる人たちが一定数いると思います。

しかしながら、麻雀は、とても頭を使う遊びです。

個人的な意見になるけれど、麻雀は、136ある牌を、頭を使って組み合わせて、更に、思考を張りめぐらせながら役を完成させていく頭脳ゲームで、生きていく上で役に立つものだと思っています(^^)

伏せられた牌の山から一牌ずつ引いていくわけですから、実力だけでなく、運にも左右されます。

【参考記事①】

正に、俗世にまみれた世界で戦ってきました(^^)/

【関連記事①】
【推し短歌】ゲーム「麻雀」編「「勝つ」ことではなく「負けない」ことにホンモノの強さはある。」
https://note.com/bax36410/n/n2f7b13405646

【関連短歌】
「なんでも麻雀で喩えたがるならこのドッグランも ETERNAL」
郡司和斗「犬の話」『くくるす』創刊号

「もう無理!無理無理無理無理テンパってぱってぱってと飛び跳ねており」
花山周子『屋上の人屋上の鳥』

そして、ついに、麻雀で九連宝燈(役満)を上がる!

九蓮宝燈(チューレンポウトウ)は、役満の王様とも呼ばれています。

そう、キングオブ麻雀とも言える役なのです!

英語では、「Nine Gates(九つの門)」や「Heavens Door(天国の扉)」とも呼ばれています。

みなさんは、アガったことはありますか?

一生に一度、出会えるか、出会えないか、の貴重な役なんだよね(^^ゞ

いつか、その軌跡を自分の手でアガる日が来るのか?

その出会いは、突然、やって来ました(@@)

【参考動画】

成立条件は、萬子、筒子、ソウズのいずれか1色で「1112345678999+何か同じ色の1牌」の形を作ること。

九連宝燈は、色に関係なく、萬子・筒子・索子どれでもOKで、私が上がったのは、以下の状況でした。

牌姿:筒子での「1112344578999」

形:6がなく4が余分

待ち牌:3と6

待ち:両門張

当たり牌:6

九蓮宝燈の出現確率:0.00045%

実際の和了り形を見ると、美しい牌姿をしており、「天衣無縫(※)」の別名を持つ、雀士憧れの役です。

※:
物事に技巧などの形跡がなく自然なさま。
天人・天女の衣には縫い目がまったくないことから、文章や詩歌がわざとらしくなく、自然に作られていて巧みなこと。
また、人柄が飾り気がなく、純真で無邪気なさま、天真爛漫らんまんなことをいう。
また、物事が完全無欠である形容にも用いられることがある。

もう~感無量です。゚(T^T)゚。

麻雀を続けて良かったよ~♪

中国の古典麻雀では、清一・一気通貫が最高役であったことから、9面待ちの清一・一気通貫形として役満へと発展したものです。

もしも「1112345678999」の形で聴牌した場合は、純正九蓮宝燈となりダブル役満とするルールもあります。

上記の「純正」の場合は、テンパイ時点で既に九蓮宝燈が確定していますが、それ以外のテンパイ形の場合は、「九蓮宝燈にはならないアガリ牌」が存在することも多いので、じゅうぶん注意しましょう。

【参考記事②】
九蓮宝燈 テンパイ形は219種類

2.美術の秋(「俗世から離れた営み」⇒南画編(池大雅「十便図」))

そんな俗世にまみれた営みもあれば( 一一)

俗世から離れた営みも存在しています。

明治維新を挟んだ江戸時代後期と明治時代の200年は、画風が多岐にわたり、画家を応援する支持層も拡大し、日本絵画史が大きく変動した時期でした。

池大雅・円山応挙・長沢芦雪・伊藤若冲・司馬江漢ら江戸後期のトップランナーたち。

狩野芳崖・橋本雅邦・横山大観・下村観山・菱田春草といった、激動の明治にあって一際光彩を放った日本画家たち。

江戸時代の中頃に活躍した池大雅(1723~1776)と与謝蕪村(1716~1783)は、日本における文人画の大成者として知られます。

その両者が競演したことで名高い国宝「十便十宜図」(明和8年作、川端康成記念会蔵)。

俗世から離れた田舎暮らしにおける十の便利な営みを描いた十便図。

中国では、官僚たちが仕事を離れ、知識人のたしなみとして描く絵のことを文人画といいます。

日本では、絵の上手さよりも、画家の内面性や、精神性を重視した作品が流行ったそうです。

池大雅などを代表とする日本の文人画は、「南画」と呼ばれ、中国の文人画よりもやわらかな表現が特徴になっています。

【参考図書①】
「池大雅」(新潮日本美術文庫)池大雅(著)

「もっと知りたい文人画 大雅・蕪村と文人画の巨匠たち」(アート・ビギナーズ・コレクション) 黒田泰三(著)

「南画を描く話」中谷宇吉郎(著)

「墨壺ゆ引き上ぐるとき筆先は暗黒宇宙を一滴落す」
三井修『汽水域』

釣りを楽しむ隠者。

この絵は、天衣無縫の旅の画家である池大雅の「釣便図」といって、田舎の草蘆生活における十の便を絵に書いた「十便帖」の一つです。

中国文人画の柔らかなスタイルを手本に、詩と書、そして画でのびのびと自由に表現する新しい画風を確立した池大雅。

草蘆は、大自然の中のコンパクトな生活空間でした。

自然と対立しない生活スタイルが、都会人にとって、いつも示唆的です。

なお、その他の便図は、以下の通りです。

これら十便図の、なによりも、この小ささ、この小さな宇宙と対峙した時。

たぶん、川端康成は、壁に掲げて見る西欧スタイルの画ではなく、畳の上で、それは箱に入れられた画を、そこから取り出して、息がかかるか、かからないかの距離感で、見入ったのではないでしょうか。

その様な状況だったからこそ、そこに描かれた山荘と、その周辺の田園風景が広がってきて、そこでは、

・悠悠と自適の暮らしを営み

・時に心しれた友が通う風景

・自由に交誼を結ぶ生活

・魚釣りをする楽しみ

・酒を嗜み

・座談を楽しむ

等の世界が生き生きと感じられるのだと、そう思います。

現実的に、あたりの風景は、この世界のどこにもないのだけれど。

これ等の画を眺めていると、中国のどこかに、かつてはあったはずだった原風景ではないのか。

そうであれば、日本のどこかに、今、なお、あるのかもしれない風景ではないのかと。

清代の中国の漢詩に詠まれ、さらに、水墨画の伝統のなかで、重ねられてきた風景の記憶を下敷きにして、ふたりが、それぞれ、自らの生が息づくような世界に仕立てあげた世界のだけれど。

なんともなつかしく、やわらかで、のびのびとした自由な世界。

いや、あってほし~いと思えてくるから不思議ですね(^^)

そう、げんに、ここに、画に描かれた世界があるではないかと思えてきます。

そう感じるのは、実際にあるかないかではなく、こちらから、すっと、それらの画に、こころの中で入っていけばいいだけであり、その行為は、色んな絵画に対峙した時の鑑賞と同じなのかもしれませんね。

そうすると、今の時代の生きづらさを思い知らされたり、現実の自分が関わっている世界には、もはや、ないものに触れていることに気付かされたりします(^^;

それに関連して、川端康成の美術品に対する考え方を、参考までに「反橋」から引用しておきますね。

【参考図書②】
「反橋・しぐれ・たまゆら」(講談社文芸文庫) 川端康成(著)竹西寛子(解説)

「美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの生につながってゐるやうな思ひがいたします。さうでない時の自分は汚辱と悪逆と傷枯の生涯の果て、死のなかから微かに死にさからつてゐたに過ぎなかつたやうな思ひもいたします。」

更に、

「美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失つて来た多くのもの、現在は失はれてゐる多くのものを知るのでありますが、それを見てゐるあひだは過去へ失つた人間の生命がよみがへつて自分のうちに流れるやうな思ひもいたします。」

等は、はっとさせられる一節です(^^;

確かに、こうした南画を見ているときの実感として、「古いものほど生き生きと強い新しさのある」のだと、感じられることがあります。

それが「反橋」の描かれた昭和23年当時、復興途上の日本であれば、なおさらですね。

はたして、どうなんだろうか。

今の時代、こうしたものを捨てて、どんな生き生きと、強い、新しさを生み出したというのだろうか、と。

ふと、そんな疑問が浮かんできます。

【参考資料】
一九一〇年頃までの大観は、立体表現への意識が強く、光と空気に配慮した繊細な表現を特色とする。
しかし、一九一〇年以後、大観の作品は平面的になり、その形態把握は大胆なものとなり、その表現は粗放になる。
こうした画風の変化は、その評価の変化とも呼応し、大観の作品は「飄逸」というキーワードで評価されていく。
大雅、蕪村の明治期における評価史をたどると、一九〇〇年代後半以降に江戸時代の南画の評価が高まる。
また、大観が一九一〇年の中国旅行で南画への関心を深めた可能性を考えあわせると、大観の画風の変化のきっかけに蕪村・大雅ら南画に対する関心の高まりがある可能性が考えられる。(「明治後期の絵画と思潮——横山大観・岡倉天心・黒田清輝——(植田 彩芳子)」より引用)

精選版 日本国語大辞典 「飄逸」の意味・読み・例文・類語
ひょう‐いつ ヘウ‥【飄逸】
〘名〙 (形動) 世間のわずらわしさを気にしないで明るく軽妙なこと。世俗ばなれした趣のあること。また、そのさま。
※作詩志彀(1783)「『雪片大如レ席』の句、これ太白飄逸の妙処なり」 〔耶律楚材‐西域従王君玉乞茶七首詩・其四〕

池大雅の作品の中に、点描で描かれた「瀟湘勝概図屏風」があるのですが、

「瀟湘」とは、中国湖南省洞庭湖付近で、瀟水と湘江の合流するあたりのことです。
瀟湘八景として、中国においては、伝統的に、絵のモチーフとされている景勝地です。
この景勝地は、日本絵画においても、多くの画家に好んで描かれています。
また、日本の風景の中から、近江八景、金沢八景などが選ばれて、それを浮世絵師の葛飾北斎や歌川広重などが描きました。
抑え気味の色調のなかにも、メリハリのある筆致で、桃源郷のような瀟湘の風景を描いています。

近代日本画においても、「瀟湘八景」を画題にして多くの画家が描いていますが、特に、横山大観の作品「瀟湘八景のうち洞庭秋月」は傑作です。

【関連記事②】
【美術の秋編(その1)】足立美術館の名園とともに名画を観る
https://note.com/bax36410/n/n6d41c14be8aa

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