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【百人一句(俳句)】そこにクローズアップ(面白味を見ようと)してみると(その8)


黒田明臣さん撮影

概念と感覚の世界をつなぐ言葉のはたらきに関して、養老猛司さんは、以下のように述べていました。

「意識の世界は、言葉でまとめる「概念」と五感による「感覚」の世界に分かれる。

例えばリンゴが100個ある。

「概念」では、誰にとっても全部同じ「リンゴ」という言葉で表現されるが、「感覚」の世界では、100個のリンゴは各々違う。

色、香り、手触りといった感覚、場所、時間、感じる人によって、同じリンゴは二つと存在しない。

現代社会は、「概念」が膨らんだ世界である。

テレビのニュースを録画すれば何度でも「同じ」ニュースが見られ、それは「概念」の世界である。

変わらない「過去のもの」が情報である。

最新の情報を追いかけている人は、最先端ではなく、後ろを向いて生きている。

10年前のニュースは見られても、10年前の私はどこにもいない。

日一日変わっている。

脳は、記憶も含めて日々変化している。

同じ出来事でも20年前の記憶と、10年前の記憶は、決して同じではない。

リンゴと同様「同じ」私はいない。

自分にはゆるぎない個性があって、その個性こそ自分の価値観だと暗黙のうちに思っていないか。

それは自分自身を「概念」=「情報」の世界に置くことである。

情報化社会は、あくまでも頭の中の「概念」の世界である。

情報化社会は医療と似ている。

医者は目の前で生きている患者を扱わない。

患者の過去の検査結果という情報を扱っている。

医者が診るのは患者自身ではなく、数値化された患者である。

私たちの根本は「感覚」の世界である。

赤ちゃんは言葉を使わないが、感覚はある。

言葉を使うのは人間に特異な能力で、そのため他の動物と社会構造が異なる。

言葉は矛盾する「感覚」と「概念」の世界をつなぐ役割も持つ。

「情報」に浸りすぎると、私と隣の人は大差ない、と思うようになる。

現代人は、「同じ」という情報のはたらきを強調しすぎて「違い」を無視する。

遺伝子を見ても分かるように、一人ひとり違っているのは当然で、個性なんて余計なお世話である。

一期一会を大切に、人生をかけがえのないものにするためにも、情報化社会の中、「違う」という「感覚」の世界も認識したい。」

この養老猛司さんのお話は、一般意味論に通じるものがあります。

一般意味論は、第一次大戦の悲惨を経験したコージブスキーが、人類が、更に、第二次大戦へと進んでいく事態に心を痛め、言葉などの記号を用いて、時間をこえる能力(Time-binding)と、記号を使いながら、記号について意識できる(地図についての地図)という、人間独自の能力を生かすことで、人類は、正気を維持して生存できるはずだと考えて、「科学と正気」(Science and Sanity, 1933)にまとめた、人間の認識と行動を評価するための体系です。

「Science and Sanity An Introduction to Non-Aristotelian Systems and General Semantics」Alfred Korzybski(著)

それは、言葉が「感覚」と「概念」の世界を繋ぐ働きを利用して、私たちの思考と体験を整理統合し、生きる方向へ導くという基準に従って、私達の記号行動に対して、批判と修正を加える道具と方法を提供してくれることによって、現代社会において、分裂傾向にある私達個人の統合にも役立っているそうです。

この一般意味論の大きなコンセプトは、

①言葉は事実ではない

②地図は現地ではない

と言う事です。

つまり、私達人間は、言葉を事実として捉えるのですが、言葉で認知され、表現されたことは、全ての事実を表していないのです。

常に、一部分を切り取って、しかも、自分の認知によって。

本書の中に、

「印度放浪」(朝日文庫)藤原新也(著)

インド人のおばさんに地図を見せて、ここに行きたいと尋ねると、この地図は間違っていて、その理由が、タバコ屋のおばさんが、ここには描かれていないではないか、と言われたそうです。

この出来事は、とても示唆的で、私達人間は、ついつい言葉に騙されてしまう。

例えば、○○をするような奴は、嫌な奴で、とても、つき合うことなどできないという言葉は、果たして、本当かと考えてみると・・・

もちろん、○○によるのかもしれませんが、本当に嫌な奴かどうかと言うのは、単なる推論であって、必ずしも、そんなことは、言えないと言う事は、多々あります。

つまり、一般意味論では、「言葉」と「事実」を分けて考えて、「思考を柔軟に保つ」ことを主張するものなのです。

また、一般意味論は、REBT(論理療法)のアルバート・エリスも影響を受けたと言っています。

一般意味論では、健全な思考の10の障害として、以下のことを挙げていますので、参考にしてみて下さい。

これだけでも、思考は、柔軟になります。

1.総称的態度「全て知っている」と言う態度

まさに地図は、現地ではないのです。

全てを知っているというのは、何か、おかしいと、とらえると良い。

全部知っていると考えたら、もう、それ以上知ろうとは、考えません。

思考停止になってしまいます。

2.自動的な反応(即時反応)

自動思考です。

言葉を吟味せずに、そのまま、反応してしまう。

3.二価的思考

白か黒ではなく、間にも、グレースケールがある事を理解する。

両極で考える事ではなく、その間にある選択肢を、大事にする。

それによって、思考の柔軟性を、保つことが出来ます。

4.不変と言う反応・評定

世の中に不変なことは何もない。

あらゆることは、変化していると理解する事。

ドラッカーも変化するという事実だけが、変化しないと言っています。

5.投影に気づかない

例えば、美しいと言った時、その人の価値観を投影しています。

本当に美しいというのは、一体何か。

そのようなことを考えてみることは、有用です。

あいつは、ダメな奴と言う考え、言葉にも投影が含まれているのです。

6.「答えられない」質問をする

答えられる現実的な質問をすることが大事。

何か失敗したときに、なんで私は、こんなにダメなんだろうか、と言う問いをしても無意味。

そうではなく、どうしていったらいいのか、と質問をすることに意味がある。

7.要素主義

何かの事柄を要素分解して、このことが原因と捉えるのではなく、全体として、その問題を生んでいると考えると、より良く思考できる。

8.事実と推論を区別しないで結論を出す

人間は、推論をしながら生きています。

しかし、推論したことを事実と考えてしまう。

推論と事実を区分すれば、より柔軟に物事を考える事が出来る。

9.常識に頼る

常識に囚われると言う事は、無自覚に仮説や前提を信じていると言う事です。

それらを、一旦、疑ってみるとより、自由に思考が出来る。

10.ラベリングとカテゴリーエラー

無自覚に、人や事柄をラベリングします。

このことを疑うことは、極めて重要です。



参考までに、一般意味論が扱う記号作用の範囲は、次の3つのレベルを含んでいます。

「思考と行動における言語」S.I.ハヤカワ(著)大久保忠利(訳)

1.「できごと」が神経の末端を刺激して、感覚、運動、感情を生む、言語化されるまでの主として「言語以前のプロセス」への気づきを高める。

2.1.項を踏まえて、色々なレベルで言語を使用する上で、反省と工夫をする。(クリティカル・シンキング)

3.1.及び2.項を踏まえて、人間の記号作用を文化的社会的な広がりにおいて評価する。(メディア・クリティーク)

また、記号作用に対する自覚を高めるために、一般意味論では、以下の3つの比喩を用います

1.地図は現地ではない。

2.地図は現地のすべてをあらわすわけではない。

3.地図についての地図をつくることができる。

地図は、現地ではない。

網膜に写った知覚像は、外にある物体そのものではない。

道に細長いものが横たわっているのを見て、「ヘビだ!」とパニックになるより、「いや待てよ」と現地を調べてみる。

所謂、遅延行動 (delayed action) をとったほうが、正気で生きられる。



最後に、俳句を読むうえで、感覚世界と概念世界の違い、それらを繋ぐ言葉を認識(すべての物事には「前後関係」があり、「背景」や「つながり」がある。)しておくと、より面白い読みができるのではないかと思い立ったので、更に、寄り道してみますね(^^)

ここ最近、フォトグラファーの方々の写真を記事で採用させて頂いているのは、写真は一瞬を切り取って、見る側に判断は委ねられるため、記事のある言葉に合わせて選んでいます。

写真家のエディ・アダムスは、タイムマガジンで、こんな言葉を書き残していました。

「将軍(南ベトナムの准将で警視総監でもあったグエン・ゴク・ロアン)はベトコンを殺した。

私はカメラで将軍を殺した。

写真は強力な武器だ。

人びとは写真を信じるが、写真は真実の半面に過ぎない」

さて、物体の世界を、一つの楕円で示してみます。

その概念の世界を、その上に位置させて、もう一つの楕円で感覚の世界を示してみます。

両者の重なりが言葉であると仮定してみます。

言葉という道具は、この二つの世界を結ぶものです。

感覚の世界は、違いによって、特徴づけられます。

概念の世界は、他方、同じと言う働きで、特徴づけられています。

説明は、これで終わりなのですが、いくらなんでも簡単すぎるかも知れませんね(^^)

ここで大切なことは、私が言う言葉ではなく、言葉自体は、

「同じであって、違うものだ。」

ということです。

だから言葉は、

「違う」という感覚世界

「同じ」という概念世界

を結び付けることができるのです。

私の声と、あなたの声は、違いますよね。

故に、私が犬や猫といい、あなたが犬や猫というとき、それは、違う音であるにも関わらず、言葉の上では、それは、同じ犬や猫という言葉として、把握されます。

文字についても、まったく事情は等しいと感じたことがありませんか。

何度、文字を書いても、全く同じ字なんか、書くことはできません。

それでは、概念の世界は、なぜ同じなのでしょうか。

それは、脳の中では、全ては、神経細胞の興奮、つまり、電気信号だからと答えるしかない^^;

それに対して、感覚器だって、電気信号を使うという意味では、同じじゃないでしょうか。

感覚世界だけに、何故、この様な違いが生じるのか、という反論があり得るとはいえ、耳で、光は捉えられなし、目で音は捉えられないのも事実です。

その違いを、脳は区別しており、そう述べるしかない。

というより、脳にとって、そうした入力器官の違いこそが、もっとも基本な違いなのです。

そもそも、大脳、中脳、後脳という脳の大区分自体が、進化的には、嗅覚、視覚、平衡覚(後に聴覚が加わる)に関係しています。

そこから生じる違いの世界を、感覚世界と呼び、概念世界にも、違いが存在しており、

「白馬は馬にあらず」

という古代中国の議論(中国戦国時代に、公孫竜の説いた詭弁的命題。)は、それに相当します。

ここでは、「白馬」と「馬」という概念の違いが問題になっています。

しかし、この「違い」は、「どちらも要するに馬だろう」と片付けることができます。

両者の違いについては、「白い」以外の性質を、考慮に入れる必要はありません。

ところが、「あの馬」と「この馬」の違いは、そうはいかない。

この場合は、違いも、類似点も、無限に列挙することが可能だからです。

私なりの解答を与えるならば、この場合、「馬」と「白馬」は、概念世界に属しており、「あの馬」「この馬」は、感覚世界に属している、それだけの事・・・

として、視るか、視ないかを、この世の全ての対象は、常に、私達に問うているんだよね(^^)

米国の臨床心理学者アルバート・エリスのABC理論では、

・A(Activating Event)=出来事

・B(Belief)=観念・解釈・思い込みといったものごとのとらえ方

・C(Consequence)=結果として表れた感情・気持ちなど

物事の「とらえ方」が自分の感情を作り、ひいては自分が生きる世界を決めていくということを説明するものですが、人生で遭遇する無数の出来事を、どうとらえるかというのは、ひょっとすると、自分がどんな知識や技術を持つかよりも大事かもしれませんね(^^)

なぜなら、ものごとのとらえ方というのは、知識や技術よりも根底のレベルにあって、自分をどんな知識や技術習得に向かわせるかを決めてしまう働きをもっているからです。

「人はものごとをではなく、それをどう見るかに思いわずらうのである」
─エピクテトス(古代ギリシャ・ストア派の哲学者)

「事柄に怒ってはならぬ。事柄はわれわれがいくら怒っても意に介しない」
─モンテーニュ(フランスの哲学者)

【百人一句(俳句)】そこにクローズアップ(面白味を見ようと)してみると(その8)

「大空にのび傾ける冬木かな」
(高浜虚子『五百句』より)

「地の涯に倖せありと来しが雪」
(細谷源二『砂金帯』より)

「天秤の雪と釣り合ふ天使かな」
(小津夜景『花と夜盗』より)

「都踊はヨーイヤサほゝゑまし」
(京極杞陽『京極杞陽句集 六の花』より)

「冬蜂の死に所なく歩きけり」
(村上鬼城『鬼城句集』より)

「灯が入るみんな空似をして帰る」
(きゅういち「ほぼむほん」より)

「灯の中に鬼灯夢も暗からむ」
(眉村卓『霧を行く』より)

「難波橋春の夕日に染りつつ」
(後藤夜半『青き獅子』より)

「馬がいく、馬についていく野へ野へと」
(田中波月『野』より)

「白菖蒲紫のなか白堪ふ」
(殿村菟絲子『晩緑』より)

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