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ディスコしぐさ

(2021年暮に書いた下書きだが、今読むととても味わい深い為、公開します。当時の言い回しのまま)

先日、ホントのホントに久しぶりに、DJを聴きに行く系のイヴェントに行って、ホントのホントに2,3年ぶり、またはそれ以上ぶりに会う人ばかりで、それはそれは楽しく過ごした。

積もる話はSNSの普及で大体解消されちゃってる世の中ですが、それでも目の前で起きてるなんやかんやに対して話すことはあるし、SNSでの出来事の再確認という、副次的なトピックスが生まれているので、それを大いに楽しんだ。

(構造的に)衆人環視みたいなインターネッツを超えた、プライヴェートな語らい方や、"ホントはこういう人なんだ"、という発見からその人の本質を掘り下げる行為は、人との会話の機微の中でしか、攻め時を勝ち得ない。

ホントのことを言うと、もうこういうことは出来なくなってるだろうな、手持ち無沙汰な時間が増えて、ありもしない人間関係が空を斬る、虚無をただ眺めて、それをツマミに呑めるくらいには大人に成り下がってるだろうな、という諦観があった。大人って言葉を便利に使えるくらい、小賢しい人間にはなっているなと思いを巡らした。

杞憂だ。

そうした所謂"遊び場"、広く意味する所の、遊び場に於いて、自分がなんとなく自分に課していた、遊び方、乃至、会話の仕方が沢山、細かくあることを、夏になるとプールに入ってまた泳ぎ方を思い出すように思い出した。
バタフライなんて水に入るまでリズムしか覚えてない。けど出来る。アレだ。

一例を開陳するので有れば、
自分は、体型的にか、やってる事か、聞こえる会話のテキトーさからか、全くはじめての人から声をかけられやすい。
その時に、話しかけてくれた人がこちらに対して好意的である場合、一回の会話で終わらせず、別の機会にまたこちらから話しかけて、場を楽しむ、というホントにスムーズにやってしまう"しぐさ"がある。
スムーズだが、打算的に、"このトピックはさっき話しかけてくれたあの子に話そう"、"今あそこで起きてることはさっき話しかけてくれたあの人が喜びそうだぞ"、という算段が駆け巡る。それを、少し手持ち無沙汰そうな、その相手に振りに行く。とてもスムーズだ。
スムースって言った方がスムーズ感があるくらい、スムースだ。

こういった細かい行動、言動は枚挙にいとまがないのだが、これらがその場を楽しむ、或いは新たな人間関係を構築する、とても重要な行為だったんだな、と、久しぶりすぎて客観的な自我が存在している状況で初めて気がついた。
と同時に、これはお互い、その場にいる人々が無意識に、何気なく、スムースにやっていることなのではないか、だから手持ち無沙汰な瞬間が、思ったより少なくなっているのではないか、などと思ったりする。
DJの繰り出す曲を聴きながら、そのノリに乗りつつ、周囲の人と関係していく、あの独特な世界の泳ぎ方。

こうやって書き起こして、テクニックとして扱って仕舞えば、さもしい様で嫌だけど、
とても重要な事なんじゃないかと思っている。
その場その場で、快適に世界を楽しむ"しぐさ"を私たちは獲得してきているんだろう。

詐欺師みたいで、その実、人の関係性に於いて本質的な何かがありそうな予感がする。

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