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そんなこんなで24歳

先日24歳になったが、相も変わらず引きこもり続けている。どうしようもなく怠惰な人間であるが、そんなことは今に始まったことではなく、加えて言えば人間には怠ける権利があるのでとやかく言われる筋合いなどない。皆、怠惰に生きよ。

さておき、このたび引きこもりの僕は友人と二人展をすることに相成りまして。
そこで私的芸術論を傲慢にもおぞましくもぶん投げるためには私的芸術論を人様にお見せできるくらいにはまとめなければならないと、いそいそ勉強している毎日である。
僕は常々、お偉い芸術様に辟易していた。体制への反発という形で生み出された近代以降の芸術たちもどこか権威的でアカデミックな様相を呈してきているように感じる。
「絵は上手くなければならない」
「下手な人の描く下手な絵に魅力などない」
うるせえ。俺は描きたいから描くんじゃ。

簡単に言ってしまえばこれで済む芸術論なのだが、こんな理論もへったくれもない個人的な暴言は個人的なブログに書くことで消化する。

とにかく、僕は芸術の暴力性について常に考えているのだ。絵を描く、写真を撮るという行為は等しく被写体を一方的に「見る」という点で暴力である。被写体は文字通り「写る」しかないのだから。僕はその事実が怖くてたまらない。いくら被写体に敬意を払おうが、丁寧に接しようが、その事実は何も変わらないのである。
それに加え、芸術という一つの学問が成立してる以上、権威からは逃れられないという暴力性。僕は権威が大嫌いである。お偉い先生が良いと言ったから、芸術理論的に美しい構図だから、など学者ではない僕にとっては知ったこっちゃないのである。そりゃ技術のあるなしに関しては人並みの目で判断できないことはないが、技術のある押しつけがましい絵よりも、子供の描いた変な猫の絵が好きだ。

そういう愚痴は個展にそのまま持って行かず、ここで吐き出すに限る。誰かが読んでるのかも分からないからね。

芸術の暴力性とともに僕が日頃考えているのは「罪」についてである。
このことについては再三noteにも書いてきたし、知人は耳に胼胝ができる気持ちであろう。ごめんなさい。
これは芸術の暴力性を日々感じながらも絵を描き続けることとも関係するのかもしれない。「罪」と聞けば「罰」と返す。僕にとって最も威力のある「罰」は「罪」を自覚することにある。つまり自分の言動への「責任感」と言い換えられよう。

僕が敬愛してやまない映画監督は、マーティン・スコセッシ、今敏、高畑勲のお三方だが、例外なく何度も自身の作品で「罪」をテーマにしてきた監督たちである。
今敏監督は『妄想代理人』で特に「罪」や「責任」をテーマにしている。初監督作品『パーフェクトブルー』においては「見る/見られる」も主題の一つだと言える。この人の考え、好きなんだよね。
高畑勲監督は、異化的な描き方をしつつも登場人物と同一化して観客にもフラストレーションを溜めさせるのがうまい。『おもひでぽろぽろ』はその描き方の到着点とも思えるような作品だ。
『パーフェクトブルー』『おもひでぽろぽろ』は女性の在り方について言及しており、フェミニズム的なリーディングが可能な作品たちだ。(両監督の作品はフェミニズム的であるものが多い)

僕の場合、言葉の物語がない一枚絵ではあるが、観る者にフラストレーションを溜めさせたり思考させたいと傲慢にも思っているので、大変勉強になる。
そんなことを考えながら怠惰に世間を斜めに見つつ、作品を作っては勉強し、の毎日である。ああ~煙草がうまい。

では。

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