田山花袋『蒲団』について

大学三年の時のレポートより

明治四十年に発表された田山花袋の『蒲団』は、妻子持ちの小説家竹中時雄が若い女弟子の芳子への恋情を持ちながらも、彼女と彼女の恋人田中との関係を監督し、嫉妬を隠しながらも二人の仲を引き裂く様子が描かれた小説である。

 『蒲団』は『破壊』と並んで日本における自然主義文学の先駆けとされた。田山花袋は『「生」に於ける試み』で「平面描写」論を唱えており、安藤宏(2015)は「『蒲団』においても視点は決して時雄だけに密着しているわけではなく、芳子や、時雄の細君の心理にも割かれていた。」と述べている¹。しかし語り手はほとんど時雄に癒着し、三人称で書かれた一人称小説だといえるだろう。田山花袋の『描写論』によれば、小説は単なる「記述」ではなく、「描写」でなければならぬのだという²。そこで描写している人物は明らかにされていない。それを安藤宏は「隠れた「私」」と表現した³。その隠れた私は時雄に癒着しているところをみると、はたしてそれは田山花袋の主張した「見たまゝ聴いたまゝ触れたまゝの現象をさながらに描く」表面描写といえるのだろうか。

 『蒲団』にたびたび登場する「ハイカラ」な女性という言葉に時雄は惑わされる。生駒夏美(2012)⁴は、明治後期「近代化された日本国民の未来の妻、未来の母に相応しい存在として中庸の近代性と知性と発展性を持ち、かつ大和撫子の淑やかをも残した女性」であると述べている。そして「「ハイカラ女学生」像は、当時の為政者・権力者たちによって作り出された」「都合の良いブランド品である」という。さらに、女学生のハイカラ化は「自発的な動きとは言いがた」い。

時雄自身「ハイカラな新式な美しい女子門下生が、先生!先生!と世にも豪い人のように渇仰して来るのに胸を動かさずに誰がおられようか」とハイカラな女性にある種の憧れを抱いている。細君に「芳子は男性と夜出歩き遅くまで帰宅しない」と文句を言われても、そんな考えは旧式だと芳子の肩を持つ時雄だったが、芳子に田中という恋人が出来た途端、その考えは揺らぐ。物語終盤では、芳子がハイカラか否かは問題ではなくなってくる。結局芳子に求めていたのは、時雄にとっての「ハイカラ」であった。その「ハイカラ」な惑わされる芳子自身や細君の心情は書き込まれていない。語り手がひとつの思想に囚われていることがよくわかる。

相馬庸郎(1972)はこの流れを「今から見ればほとんど滑稽としか言いようのない矛盾」とし、しかしこれは時雄が「新しい世代にも古い世代にも属しきらぬ、いわば「谷間の世代」として設定され」「明治的近代の矛盾そのものの反映であることを、おのずと読者にさししめすものとなっている。」と論じた⁵。時雄の嫉妬心やそれから生まれた矛盾をそのまま書き出そうと試みることがある種のリアリティとなり、それこそが花袋の自然主義文学なのだろう。三人称であるが、一人称のように語り手が時雄に癒着することで、時雄の心情が読者に伝わりやすくなる。

よって自身が望んだ「ハイカラ」な女性に芳子を同一化させ、芳子が不貞を働くと逆上するような矛盾した自分に気づかないことも、そうしたリアリティを表現するのに役立っているのかもしれない。
日本の自然主義文学は欧州のロマン主義ではないかという批判がたびたびなされたが、安藤宏(2015)は「わが国の場合はともすれば後者の「真相の暴露」へと傾斜していく趣があり、「正確に」という理念はともすれば「正直に」という徳目に置き換えられ、本来ロマン主義的な要素である自己主張が、逆に自然主義文学の特色として表出することになったのである」⁶と論じた。前述したリアリティも「正直に」という表現とほとんど同義だ。この意見をそのまま採用すると『蒲団』での時雄の赤裸々な性的な告白が評価されるのも頷ける。

時雄は監督者の名目のもと芳子と田中の仲を引き裂くが、それが嫉妬心から来るものであることに自身は気づいないように見えるが「嫉妬」という言葉はしばしば文中に登場している。さらに「ハイカラ」な女性への憧れから逆上への変化にも嫉妬心が隠れている。「性の告白」だけではなく、自身の感情に気づきつつも無意識のうちにその感情を無視している人間的な矛盾の表現も「正直」な日本の自然主義文学として評価された要因だろう。

明治後期になって権力者によって作られた「ハイカラ」な女性像を芳子に見、嫉妬心によって矛盾した心に自覚しつつも無意識に打ち消す様子や、監督者としてと再三自身に言い聞かせる様子も日本の自然主義文学的表現ということになるのだろう。

参考文献
1『日本近代小説史』安藤宏 中央公論新社 2015年1月15日
2同上
3『「私」をつくる 近代小説の試み』安藤宏 岩波書店 2015年11月20日
4「田山花袋「蒲団」に見る日本の近代化とジェンダー」生駒夏美 2012年
5「『蒲団・一兵卒』内解説」相馬庸郎 1972年9月
61同

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