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氷河溶融とペトラ、アンマン、ジェラシュ、ボスラ、ダマスカス

ナバテア人と隊商ルート

ペトラは、紀元前2世紀前半から現在のイエメン、サウジアラビア、ヨルダンを介してシリアまでをの隊商ルートを制したナバテア人の首都で有名です。また地中海側のガザとを結ぶ交易拠点でもあります。

2006年アカバ港から旧ヨルダン川の川底を北上していけば、きっと川の東岸にペトラ方面への入り口があるはずだとの仮説のもとタクシーで行ったのですが、舗装道路から外れるには4WDの車でないと無理!ということが判明しました。

Shobak(上の写真はShobakから北西ヨルダン川方面)

ペトラから北方24kmのキングスハイウエー沿いのShobakという村にもタナ自然保護区の景観がいいということで訪れたことがあります。ペトラも高いところは標高1000mとかで、Shobakの丘からヨルダン川方面を望むと標高差1000mがきれいな岩山でつづられ、素晴らしい景観を楽しめました。イスラム人の男は、村のなかを運転中でも友人と出会うと、車を止めてハグしておしゃべりするのですが、友人でないと全く無視!するのだということを発見しました。

Shobakの村のはずれにはローマ時代からの立派な砦と歩いて降りていく深い深い井戸があり、丸い石でできた2000年前の住居もありました。ローマ時代にはまだShobakあたりまでヨルダン川に海の水があり、船で運んできた荷物をこのあたりで陸揚げしたか、あるいは地中海側のガザからアブダトの街を介してロバなどで運ばれたものをキングスロードでアンマン、ジエラシュ、ボスラ方面に運び、メソポタミアなどと交易していたと考えられます。

現在のサウジアラビアを中心にアラビア半島を東西に貫くナバテア人の隊商ルートでは、生命線ともいえる各オアシスでの地下水の減少か、主要交易品で、金並みの価値と言われた乳香の交易価値の減退かなどから衰退したものと考えられます。

Medain Salih マダイン・サーレハ

ナバテア人の街でペトラの南東440kmのサウジアラビア側にマダイン・サーレハという無人の隊商都市遺跡があります。やはりきれいな色岩に立派な墳墓や集会所などを造り、住居跡の遺跡もあります。写真で見るとこの町は巨大な山脈の麓で明らかに水が長期・大量に流れ岩肌を侵食していたようです。氷河の溶融が終わり、地下水の深井戸も枯れ、ついには突然街が消滅したのでしょう。

ペトラからダマスカスへのナバテア人隊商の南北ルートの繁栄

キングスロードのペトラ、アンマン、ジェラシュ、ボスラ、ダマスカスの南北ルートはナバテア人が紀元106年にローマ軍に滅ぼされた後も重要な交易ルートとして6世紀頃まで繁栄しています。

標高770mの丘の上にあるアンマンは紀元前17世紀から栄えていたようで、アンマンの旧博物館にて紀元前7250年の人型の土器やトトメス3世の胸像が粗末な建物に収まっているのをみました。

ジェラシュはアンマンの北48kmの標高600m前後の隊商ルートの街で、青銅器時代からの歴史があり特にローマ時代の遺跡は驚くべき立派さです。

ナバテア人の北の都 ボスラ

ボスラは、ダマスカスの南南東110kmにあり、紀元前14世紀頃の記録にも登場するようですが、紀元前2世紀頃からナバテア隊商の北の都として、ローマが征服してからはローマ街道の街として6世紀頃まで繁栄しています。

どうも不思議だ

ナバテア人の隊商ルートの南の都ペトラもアンマン、ジュラシュ、ボスラもすべて標高600m~1000mの現在の感覚からすれば高原地域を通るルートで、ペットボトルのミネラルが簡単に入手できる現代ではともかく、なぜヨルダン川の東側の高地ルートなのか不思議です。ヨルダン川の西側の平坦ゾーンルートも利用はされていますが、どうもカナン地方ルートの存在感がやや低い気がしてなりません。地中海沿いのTel akko から北東方にダマスカスを目指すルートが最も経済的だと考えますが、どうもTel akkoの港が地中海の水位低下で機能不全に陥っていた可能性が考えられます。

知られざる真実

現在では単なる岩山山脈にしか見えない山の高いところに、豊富な氷河の蓄積があり、その麓には現在では想像もできない川や湖があり、平坦なカナンルートに比べて遜色ない新鮮な水と食料を入手できたため、ガザからアンマンを介してジュラシュ、ダマスカスへのルートの便利さに全く違和感がなかったのではなかろうか。西暦614年のサーサーン朝ペルシャの征服後も繁栄を持続、西暦746年の地震で壊滅されたが真の原因ではなく、時を経て岩山の氷河蓄積と地下水の減少がこれらの交易ルート都市を消滅させたのでありましょう。