ピラミッド

古代エジプトの歴史

古代エジプトも紀元前2500年代の3大ピラミッド建設時代からアレキサンダー大王以降のプトレマイオス朝クレオパトラ7世の紀元前30年滅亡まであまりに長く華やかな歴史のため、どうしても時間軸が混乱してしまいます。ナイル川流域の氷河溶融と古代エジプト文明の関係を考えるためには紀元前600年代頃までで十分でしょう。

エジプト先王朝時代の2つの文化

古代エジプトは、1万年前からの地球温暖化によるナイル川の流水量の増減により盛衰した農業文明の一面とナイル川流域の巨大蓄積氷河の溶融本格化から大幅に水位が上昇し、もちろん黒海のドナウ川とかの氷河溶融水も加わり、地中海の水位が大幅、5m以上に上昇し、現在のスエズ運河のうえを船が航行でき、地中海と東の紅海を結ぶ東西交易ルートでナイル川下流域のメンフィスMemphisやタニス Tanis,などの港から、土器や象牙、アフガニスタン産ラピスラズリ、宝石などを求めて東西交易船が出かけることが出来たからこそ巨大な3大ピラミッド建造の費用が賄えたのではないかという解釈です。

農業文明時代のパダリ文化とナカダ文化


古代エジプトを初めて統一したことで有名なナルメル王は、紀元前3100年頃首都をカイロの南20kmのナイル川西岸のメンフィスに置いたとされています。

パダリ文化

統一された初期王朝時代より前の先王朝時代(紀元前4500年以降)に繁栄していたバダリ文化とナカダ文化については、前者がカイロの南340km、ルクソールの北西180kmのナイル川下流域沿いで、紀元前4500年から紀元前4000年と先行し、小麦、大麦の農耕と牛、ヒツジ、ヤギの家畜飼育、ガゼルなどの狩猟の生活が中心のようです。

ナカダ文化


紀元前4000年から紀元前3200年に栄えたナカダ文化は、ちょうどナイル川が湾曲する、ルクソールから北北東20kmのコプトスから北西85kmのアドビスまでのナイル川沿いに栄えた文化で、下流のバダリ文化の生活様式のうち狩猟のウエイトが減少し、農耕のウエイトが増え、たくさんの土器を製造していたようです。ナカダ文化では交易の範囲がナイル川だけでなくパレスチナカナン地方にまで拡大し、象牙やラピスラズリなどの珍品ステイタス品が交易対象になり、続く古代エジプト王朝文明を先導しています。

木材が自生していたのではないか

土器を造るには、素焼き土器といえども600度から1000度の温度が要求され、当然たくさんの木材や木炭が必要です。土器用の燃料まで輸入するほどなら土器自信を輸入したほうが合理的ですので、品質レベルは劣っていたとはいえパレスチナ産の土器を真似て製造していたことは、周辺地域に木材が豊富に自生していたものと考えられます。


ナカダ文化の交易品

ナカダ文化の交易品で特に注目なのは、パレスチナ産の土器やアフガニスタン産のラピスラズリなどが大きな墓の副葬品として出土し、ナイル川沿い又は東部砂漠ゾーンを介して紅海方面に貿易ルートがあった可能性があります。やはり利益率が格段に高い遠い海外の珍品・希少品の交易に便利な立地が発展したようです。

ナイル川下流のバダリ地域から上流のナカダ地域へ文化の中心が移動した理由に、ルクソールの北50kmの現在のキナと紅海側の港町サファガ方面とを連絡するルートがあった可能性が考えられます。

キナからの東部ルートは後のハトセプスト女王時代とは異なるのではないか

このルートはナイル川の水がどんどん増えている時代ですので、ナイル川の水がどんどん少なくなる1700年もあとの紀元前1500年頃のハトセプスト女王時代に用いられた、コプトスから紅海側のクセイルへのワデイ・ハンママートのルートは異なると考えます。ナイル川流域の水位が想像もできないくらいに、例えば7m以上も水位が上昇すればパピルス船の運航ルートも当然異なるでしょう。

ローカルバスでサファガからキナへのルートはこちら。https://note.mu/bc10000/n/n0e9bf03841db

最初の首都メンフィス


ギザの3大ピラミッドの南東18kmのメンフィス(現在のミート・ラヒーナ)はナイル川下流ゾーンで屈指の競争力を擁していたようで、紀元前3100年代ナルメル王など初期王朝時代の首都として、繁栄の頂点ともいえる紀元前2500年代の3大ピラミッド時代はもちろん、紀元前2040年頃のルクソールへの首都移転までの約1000年間、その後も重要な港町としてメンフィスは繁栄していたようです。紀元前2050年頃以降ファラオが次々に交代していること、紀元前2040年頃にルクソールへ遷都したことなど、どうも経済の変調が原因で、その根源にはナイル川の流水量が急激に減少したのではないかと疑われます。メソポタミアの水不足飢饉は紀元前2022年頃です。

3大ピラミッドの建造手法

クフ王などの3大ピラミッド以外のピラミッドの石材は、人力などで簡単に運べるボリュームであるので、誰もその築造技術を詮索しない。ところがクフ王ピラミッドとなると大回廊など想像を超える内部精度だし、使われている石材が桁違いの大きさであるから誰しも推理して真相を究めたいと思う。

アブシンベル神殿やカルナック神殿の巨大な石像や石柱群、オベリスクも巨大ではあっても、屋外だしアスワンなどからいかだなどでナイル川を下って、いまのカルナック神殿付近が川岸であったとすれば、何とかなりそうな感じがある。

やはり巨石をいかだで組み立てる


3大ピラミッドのギザの台地より100m以上も高い対岸のムカッタムの丘から石灰岩を切り出して、いかだに乗せて対岸のギザに運んだあと、それをどう組み立てていくかは大変なパズル。増水期の前にナイル川に石材を載せた巨大ないかだをたくさん浮かべて、水位が上がったきたらそれを順次積み上げていく?ではそのいかだをどのように固定して浮かべておくのか?石の錨があるにはあったが?巨石と人を乗せたいかだが築造中のピラミッドのまわりで待機しておく?ナイル川の流れは非常に緩やかだったのでありそうではあるが?ただピラミッド周辺の労働者の集落など毎年水没しているものとの関係は?ピラミッド労働者を船員!と呼んでいたとか?

クフ王のピラミッドの巨石は下のみ

見た感じですが、ほかの観光客も指摘しているのでそうでしょう。確かに角が取れて丸くなってるし、上に積まれているのは明らかに小型の石です。毎年毎年、膨大な水に洗われて下の巨石のみ角が丸くなつたのでしょう。18金や14金の加工道具で加工しているのできちっと面取りできていたはずです。

港町メンフィスの繁栄の基盤は?

3大ピラミッド建設が出来たころには、当然ナイル川の流水量の減少は始まっていたと考えていますので、何時かの時点で地中海の水位も下がり、ついにはスエズのうえは船での航行が出来なくなっています。東西交易の利益がなくなれば古代エジプト王国は農業収益が中心となり、ガクンと国力は落ちてしまいます。

国力、財力が衰え、ヒクソスに敗退した

港町メンフィスは紀元前1650年頃からのヒクソス統治下での建造物の略奪などで衰退しますが、紀元前1332年頃のツタンカーメン王時代に再び首都になり、特に紀元前1200年代ラムセス2世以降に近くに首都(ペル・ラムセス)での大規模公共投資波及効果で繁栄したようです。

その後紀元前1069年頃から紀元前716年頃までタニスやブバステスなどナイル川デルタの東部寄りの首都が続くものの、ファラオの在位年数が1年から10年程度でくるくる変わり国の弱体化からリビアやヌビアなど海外からの支配を受けました。

紀元前525年からはペルシャ人の支配下となり再びメンフィスは首都になりましたが国力、都市経済力の低下は否めず、紀元7世紀頃にナイル川の砂の下に沈んでいったようです。

メンフィスの立地と変遷


メンフィスはナイル川西岸にあり現在のサッカラ、ダハシュールなどの広い範囲で、その西側背後は紀元前2650年頃からジェセル王のピラミッド、赤のピラミッド、屈折ピラミッドなどが建設されたメンフィスのネクロポリス(埋葬地)として長い歴史があります。

紀元前2500年代に建造された3大ピラミッドのあるギザはメンフィスの最北端、下流部にあります。ピラミッド建設は先ず上流部からはじまり下流部の3大ピラミッドで突然巨大化を中止して、日干し煉瓦のピラミッドなどに変わってしまいます。

比較的小さな石を積み重ねた屈折ピラミッドなどから、突然巨石を使った3大ピラミッドが出現し、しかもだんだん小さくなっていく。これはナイル川の流水量の制約のもとでピラミッド建設が行われたことを示唆しているでしょう。

ナイル川の流水量が増えることを利用して高い大きなピラミッドを建設できたが、流水量の増加で首都ゾーンが水没し、河岸が西進し、首都がどんどん西岸奥寄りへ移転を余儀なくされたのではなかろうか?繁栄は続いたのであろうが、東部の紅海・パレスチナ方面への交易港としての利便は低下し、後の首都となるナイル川河口デルタ東岸の例えばタニスあたりのほうが利便が良い交易港に成長したのではなかろうか。

なぜそのように空想するかといえば、ナイル川流域の氷河溶融が終盤を迎えたのであろうことからナイル川流水量が減少し、川幅が狭まり、メンフィスが水面上に戻り、交易港として機能が少し回復したのであろう、紀元前1200年代のラムセス2世以降に再びメンフィスが首都となる場面があるからです。

ナイル川の流水量の減少は穀物生産力を急減させますのでメンフィス復活とはいきません。我々が今見るメンフィスは巨大なラムセス2世時代の遺跡で、紀元前3100年代以降約1000年間の首都と紀元前1200年代の首都がゴチャゴチャになりやすいですが、あの砂の下深くに紀元前3100年代の遺物、貿易品パレスチナの土器やアフガニスタン産のラピスラズリ、象牙加工品、レバノン杉などが眠っているのでしょう。

メンフィスは非常に広い都市

最初の首都メンフィスは非常に広かったということは、ナイル川の流水量の増加に伴い毎年5cm水位が継続的に上昇すれば例えば30年で1.5M、100年で5Mであるから、普通は長年同一地区にある都市の中枢機能を担う建物が河岸の移動に伴い当然後退して再建されねばならなかっであろう。砂の下から立派に装飾された石の建造部材があちこち広い範囲から発掘されるのはそういう理由ではないでしょうか。

古代エジプト木材とミイラの棺

木材がそれなり豊富なメソポタミアに木造の棺が普及しなかったのになぜエジプトで普及したのか、それは先祖が木の棺に馴染んでいたのに、青銅器や金合金の鋳造のために森を減らし燃料にしてしまったから、レバノン杉などの高級木材のためパレスチナ方面まで出かけたということでしょう。

メンフィス背後のたくさんのピラミッドのなかの木製の棺もナイル川の1000年以上の毎年の冠水と乾燥の繰り返し、築造後3000年以上の経過で朽ちて消滅したので発見できないのでしょう。

ハトセプストとラムセス、ツタンカーメンの王墓

ルクソールの王家の谷はツタンカーメン王墓の出土品でその富の莫大さに驚愕させ、カラッポのラムセス2世の巨大王墓に一杯の宝を想像させます。ただ弱小王のツタンカーメンといえども王墓があるので弱小ではなさそうです。王名表で紀元前2050年から紀元前1070年までの980年間の王は129人なのに王家の谷の王墓は64基ですから65人のファラオには王家の谷には墓がありません。

一人平均8年弱、中にはラムセス2世さんのように67年の超長期の方もいるので、ルクソール時代が繁栄したように誤解しますが、ハトセプスト女王とラムセス2世の大活躍に幻惑されているだけで、すぐにCEO退任を迫れれたファラオも多いようです。

トトメス3世のカナン地方への遠征は東西交易利権獲得のため


トトメス3世は紀元前1457年メギドの戦でカナン地方を制圧し、ラムセス2世は紀元前1286年カデシュまで遠征しヒッタイト王国に迫りますが、どうも自国の長期経済衰退趨勢を領土拡大で何とか挽回しようと必死だつたのではないか。あるいは紅海⇒死海⇒ヨルダン川⇒地中海への東西交易ルートが繁栄し始めたので、この急成長ルートの利益を取り込もうと考えるのが本命か!メギドの戦いで植民地化したカナン地方、パレスチナ方面へはエジプト本国から交易実務や建築などの高度技術者が移住し、後のエルサレムの発展、ユダ王国の繁栄の基礎を築いたのではなかろうか。エジプト本国がいつまでもパレスチナの交易利潤の多くを要求するので、ついにパレスチナのエジプト人たちも紀元前1286年のラムセス2世のヒッタイト遠征に反旗を掲げ、ついにはエジプトからの独立を勝ち取りユダ王国建国につながるのでしょう。


古代エジプト人と古代ユダヤ人の関係

紀元前1200年頃のモーゼ物語も、ナイル川の水量減少に伴う古代エジプト経済の将来に見切りをつけた人たちがカナン・パレスチナ方面へ新天地を求めて盛んに移住したことを示したものではなかろうか。

古代エジプト人のビーズ加工技術や組みひも、石材加工技術とユダ王国の人々のそれら技術は極めて類似しています。メソポタミア方面の伝来ではないです。旧約聖書のアブラハムの物語をベースにエルサレムのユダ王国を紐解こうとするなど考えられません。泥レンガの文化からは嘆きの壁は築造できません。