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古代ヨルダン川文明の存在

エジプトとメソポタミアの間に隠れた古代文明が存在するのではないか
エジプトピラミッド建築の粗で、宰相のイムホテプは紀元前2660年頃首都メンフィスからメソポタミアシュメール初期王朝時代の主要都市国家ウル、ウルクなどに科学研修・技術取得の旅にでて、土木・建築や医学などの当時最先端レベルをエジプトにもたらし、ピラミッド築造や人体から外科的な損傷少なく内臓や脳などを取り出し、ミイラ制作を多数経験することによって、エジプトの建築、医療技術を世界最高レベルに引き上げる端緒を築いた偉人である。

旅のルートと移動手段

もちろん各分野の若い秀才たちや随行員を伴っての旅程であったであろうが、単純にエジプトメンフィスからカナン地方、ダマスカス、パルミラ、マリ、バビロン、ウルクの陸路を直線でつないでも1800km以上であり、途中に宿泊や食事等それなりのインフラを備えた街がないと大変です。

乗り物はラクダがまだ乗用でないため、たぶん約5000年前から家畜化されていたロバであろう。一日30km移動で60日間、50kmなら36日間となる。

要人の旅程であり、それなりの前例があり、旅の安全等が確保されていたであろうが、旅の途中には穀物、飲料水などの入手が容易な水資源が比較的豊富な地域が備わっていたことになる。
東地中海の港街アッコの旧市街地は5000年前からの街だそうですので、メンフイスからここまで船で来て上陸⇒ダマスカス⇒ ⇒ウルクまででも1200kmです。

カナン地方に何か古代文明があったのでは


どうしてもヨルダン川沿いガラリア湖から西の地中海にかけて一大穀倉地帯、古代文明ゾーンがないと、メソポタミア発祥の彩色土器制作青銅器鋳造の古代エジプトへの技術伝承やインダス文明方面からのラピスラズリ、象牙、宝石類の交易などの重要な歴史事象がうまく機能しないように考えられます。これを仮に古代ヨルダン川文明と名付けてみましょう。

古代エジプト文明、メオポタミア文明、古代ヨルダン川文明の関係


古代エジプト文明の先王朝時代の紀元前4000年から紀元前3200年にルクソールの北50kmのナイル川湾曲部あたりを中心に栄えたナカダ文化の時代にお墓の副葬品としてアフガニスタン産ラピスラズリやカナン産土器、象牙が発掘されており、当時のエジプトがカナン地方を介して、インダス文明との交易ルートを持つメソポタミアと交易していたことが明らかになっています。


現在のヨルダン川は、標高2800m級の3つの峰をもつアンチレバノン山脈の主峰ヘルモン山の雪解け水、ゴラン高原の湧き水を中心に南に流れ、水面は標高マイナス213m最大水深43mのガラリヤ湖に集まり、イスラエルの基幹農業用水として利用された残りが小さな流れ、伏流水としてヨルダンの農業用に利用し、最後にわずかが死海に流れ込んでいます。

解けない疑問

カナン地方の高度な文明、旧ヨルダン川文明の源流たる巨大河川としては現在のヨルダン川はあまりに流域面積が狭く、貧弱で、どこかに何か秘密があるようです。
ヨルダン川はそもそも大アフリカ地溝帯の北端部ゾーンであるヨルダン地溝帯に沿って流れています。
ところがこの地溝帯に続く北側で、標高3000m級の山脈が続くレバノン山脈とヨルダン地溝帯を介して東側のアンチレバノン山脈との間に拡がるベッカー高原から南西に流れ出る水は、リタニ川としてベッカー高原の南西端から急に西向きに流れを変えて東地中海の港ティルスの近くに流れ込み、ヨルダン川には流れ込んでいません。
レバノン山脈アンチレバノン山脈ベッカー高原に蓄積されていたであろう膨大な氷河が溶融して流れ出した大河としては、google mapを見る限りリタニ川はどう考えても小さすぎます。

「バールベック神殿群」からの想像

ベッカー高原の中央部に世界遺産の「バールベック神殿群」があります。現在のバールバック神殿群はフェニキア人の造営を引き継いだギリシャ、ローマ人がジュピター神殿、ビーナス神殿、バッカス神殿を1世紀から3世紀にかけて建造したものですが、当初は紀元前3000年から紀元前1000年に活躍したカナン人の一部であるフェネキア人がベッカー高原の主神「バアル」を祭るために建造を始めたものです。バールベックのバアルは、メソポタミアの雷鳴の神「ハダド」と同じくフェニキア人にとって嵐と慈雨の神、「主」を意味しており、フェニキア人がメソポタミアの信仰の影響を受け、フェニキア人の重い想いが詰まっている神殿なのではないのか。

ベッカー高原を南西に流れて地中海側でレバノン杉の重要積出港ティルス近くに流れ出るリタニ川沿いにあることは、紀元前1000年頃までレバノン山脈東斜面及びアンチレバノン山脈西側斜面及びベッカー高原一帯が寒冷な気候に育つレバノン杉の重要な生育ゾーンであり、切り出された高価なレバノン杉がリタニ川の河口近くの天然の良港ティルスで造船や輸出されており、超重要なレバノン杉産業の源として、フェニキアの人々の主神として崇められていたことが想像できます。もちろんギリシャ人、ローマ人も優れた造船のためにレバノン杉の重要性を認識し、たくさんの収穫を祈願したことでしょう。

土木で川の流れを変更したのでは


ベッカー高原のリタニ川の流れは西進しますが、バールベックの北北東90kmのホムス街の西隣のオロンテス川オム湖は、地図で見てもそれなりの大きさですが、かつて紀元前1300年頃に築造された現存する世界最古の人造湖だそうです。この土木技術を利用できれば、本来はヨルダン渓谷を流れるべき水を東地中海側のティルス方面に流路変更するのはそれほど困難な地形に見えません。
伐採・収穫したたくさんのレバノン杉の運搬には河川を利用するのが一番ですし、ガレリア湖、死海方面より地中海側ははるかに便利です。たぶん紀元前1500年以降から紀元前1300年までのどこかの時点で、紀元前1286年にはオム湖の少し上流のカデシュでヒッタイト王ムワタリス軍とエジプトのラムセス2世軍の著名な戦争があったことなどやガレリア湖北西16kmに、紀元前1900年から紀元前1300年に絶頂期を迎え、その後滅亡してしまう交易都市ハツォルの運命が関係するのか否か?

紀元前1500年頃までは大河であったのでは


たちまちは宰相イムホテムがメソポタミアに出かけた紀元前2660年頃のカナン地方の状況がどのようなものであり、紀元前1500頃までのヨルダン川の流水量と穀物生産力のイメージを求めているわけであり、現在のリタニ川の流路や流域から、当時のヨルダン川の流れを想像することも、あながち荒唐無稽と言い切れないのではないかと考えたわけであります。

現在のヨルダン川の流水量があまりに少なく、ガレリア湖水面は標高マイナス213mでガレリア湖から死海までの水が流れていたであろう平坦な川幅は1.4km前後もあり、川岸には水に削られた石を見たことを記憶していますが、残念ながら写真は撮っていません。
ローマ遺跡で有名なジュラシュからヨルダン川まで500m以上下りてきて、ヨルダン川沿いの道を標高水面マイナス400m超の死海までまた緩やかに下っていくのですが。ヨルダン側の軍事的警備の厳しさとか、水の少ないため住民の衣服の洗濯ができていなくて死海寄りほど貧しいとか、水は少ないが野菜は素晴らしいのがたくさん採れるのだとか、予想外の展開の連続でした。

古代農業文明の終焉

氷河の蓄積が少なくなり、溶融した流水が少なくなれば古代農業文明は繁栄は終わります。メソポタミアもエジプトも紀元前2000年頃には氷河溶融の流水の豊富さを前提とした農業文明は終焉したのでしょう。あたかもインダス文明が紀元前1700年頃突然終焉したように。

メソポタミアやエジプトの交易文明はイメージしやすいのですが、中間で両文明を繋いだり、競ったであろう古代ヨルダン川文明はアカバ湾、死海、ガレリア湖、エルサレムなど生成から衰退までの履歴が不明な要素が複雑に絡み合って、何が確かそうかさえもが極めて少なく、現状の明快さが気味悪くも感じます。