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メソポタミアの古代史

メソポタミアは古代エジプトより葦船、青銅器、医学や建築などの分野で先進していたようです。ピラミッド建設を初めて成功させたエジプトの宰相 イムホテプが紀元前2660年頃にメソポタミアから多くの先端技術や知識を持ち帰ったことが知られています。

交易に欠かせないメソポタミアの葦船は紀元前4000年頃から建造されており、ペルシャ湾のdirumun(バーレーン?ドバイの可能性?)などを介してインダス方面などと海上交易していたようで、アフガニスタンのラピスラズリは特に貴重な交易品でした。

メソポタミア文明の前史である紀元前6500年から紀元前3100年のうち、ウバイド文化といわれる最もペルシャ湾側、最下流ゾーンで紀元前4500年から紀元前3500年に栄えた地域と、エジプトナイル川沿いのナカダ文化(紀元前4000年~紀元前3200年)は間接的にせよ交易があったらしいです。

ウバイド文化では車輪、銅器などが発明され、後に南西方上流で紀元前4000年から3100年に栄えたウルクに引き継がれ、ウルク文化時代に青銅器が造られたようです。銅に比べ銅に11%の錫を加えた青銅器は固く丈夫なので道具や武器が急進歩したことでしょう。これらの冶金技術の進歩には多くの木炭が利用されたでしょうから、当時はメソポタミアのザクロス山脈に豊富な木材の蓄積があったと考えられます。古代エジプトはでの輸送が主、古代メソポタミアは船と車輪に注目します。

金属の融点を調べました

錫232度、 銀962度、 金1064度、 銅1085度、 鉄1536度 銅とスズで青銅器、金と銅を溶かせて18金や14金を造るのと鉄器では難易度が段違い。

氷河溶融は紀元前2750年までがピーク?

氷河溶融との関係で注目しているのは、メソポタミア文明のシュメール神話にウバイド文化ゾーンのエリドウやシュルッパクなどの下流の有力5都市が冠水し、やがて衰退してしまう物語があるそうですが、考古学的調査で紀元前2900年から紀元前2750年にこれらの都市が大洪水で壊滅した時期と符合するらしいのです。

シュメール文化からアッカド帝国

シュメール文化はメソポタミアの南部のウルクなどの多数の都市国家時代で、農業を中心としつつインダス文明との交易、円筒印章、銅にイラン高原の錫を加えてより強い青銅器などを発明し発展した。

紀元前2330年頃上流のアッカドのサルゴン王が下流のシュメールを併合しメソポタミアの統一を成し遂げアッカド帝国を築き、孫のナラム・シン王はさらに王国を拡大し道路網を充実させた。

なお紀元前2120年頃に制作されたルーブル美術館蔵 グデア坐像は石への彫刻技術が飛躍的に向上して不思議がられていますが、素人には18金制の石加工道具を携えた古代エジプト人が販売や技術指導にメソポタミアを訪ねただけと感じる。

バビロン王国

紀元前2022年頃シュメール地方で大きな飢饉が発生するなどアッカド帝国末期のウル第3王朝も滅亡し、各有力都市が群雄割拠するも紀元前1894頃下流部ではバビロンに有力な王朝ができ、特に紀元前1764年頃にハンムラビ王の時代には勢力範囲を拡大した。

紀元前2750年頃は大洪水時代、紀元前2022年頃からは流水減少時代へ

シュメールの楔形文字に記載された紀元前2022年頃の飢饉とは、ザクロス山脈やアナトリア高原に蓄積されていた氷河が減少し、メソポタミアが農業大国から交易大国に変貌する時代を示しているのでは。

アッシリア商人とロバでの交易

一方上流域のアッシリールを中心にアッシリア商人はロバをもちいてバビロンなど平野部のヒツジの毛織物と山岳部のを交易するなど各地を交易し商人が多くの富を蓄積しアッシリア王国を支えたようである。

アッシリア帝国の成立

バビロンとアッシリアが戦いの後併合されて紀元前1235年頃アッシリア帝国となるも、たぶん氷河蓄積の払拭に伴うティグリス川、ユーフラテス川などの流水量の大幅減少から穀物生産が減少し、どんどん貧しくなるので安定とは程遠い時代が続いたのでありましょう。

メソポタミア内の各都市国家の盛衰や域外からの異民族の侵攻を受け混乱した時代で、どれが信ぴょう性の高い資料かわからない時代が続いたようです。

急発展して新バビロニア帝国の成立

紀元前670年頃アッシリア帝国内でのバビロンの経済的地位がどんどん高まり、紀元前612年にバビロン王がアッシリアの王都ニネブェを陥落してアッシリア王国を滅亡させ、息子で後のネブカドネザル2世は紀元前605年にエジプトからシリアを奪い、紀元前597年にエルサレムを占領しユダ王国の人々をバビロンに連行した、またフェニキアのティルスなどパレスチナ全土を支配下におき新バビロンニア帝国時代を築きました。

バビロン市が急発展できた理由

紀元前670年頃からバビロン市が驚くべき急発展は、メソポタミアが長年の道路の整備とロバでの運搬により、ペルシャ湾から地中海方面への東西交易ルートを開拓し、宝石、象牙、金、銀、乳香、鉱石などがバビロンを中心に運ばれていたことを示していると考えられます。国際交易の利益、都市の繁栄が古代エジプト、ユダ王国など異国の高度な技能技術者の移住・流入を促し、高度な武器の開発や武器購入に充てられたことにより一気に商業流通帝国を築いたのでしょう。

ヨルダン川⇒エルサレム⇒地中海 ルートの衰退

逆に言えば、紅海からヨルダン川を北上して死海を超えエルサレムを介して地中海側へ通じる東西交易ルートが、ヨルダン川の流水量の減少から死海まで船が航行できなくなり、紀元前670年頃に衰退したので、メソポタミアが急発展したと推測されます。

ペルシャ帝国の繁栄

バビロンを中心とした東西交易ルートという絶対的な繁栄基盤を保持しているはずの新バビロン帝国は、紀元前539年東のアケメネス朝ペルシャ キュロス2世に滅ぼされペルシャ帝国に併合されてしまいます。その後ダレイオス1世はメソポタミアを東西に結ぶ従来の道路を改良延長し、西のサルディス(現在のトルコイズミールの近く)から東のペルシャの首都スーサまでの王の道を完成させます。

しかしこのペルシャ帝国も、マケドニアのアレキサンダー3世によってサルディス ミレトス タルススと連戦連敗 ついに紀元前333年イッソスの戦い、2年後のガウガメラの戦で敗北し滅亡してしまいます。

フェニキア港湾都市の消滅

ペトラで有名なナバティア人の交易ルートでは赤色でバビロンを中心に東西交易ルートが描かれ、黒色がナバティア人の交易ルートです。注目すべきはバビロンから北方ニネブェを介してトルコ サルディス方面への交易ルートが新たにできています。確かに王の道の交易ルートができフェニキア方面へとで2ルートになっています。しかもフェニキアの港の表示がなくダマスカス以西はどこの港がメインなのかわかりません。アレキサンダー3世もフェニキアのティルスこそ半島状の城を埋め立て破壊していますが、他の港町はすべて降参しています。

フェニキアの地中海沿岸諸港湾は、すでに地中海海水面の低下で港湾機能を失い、レバノン杉も払拭し、既に紀元前6世紀ごろから凋落し、新バビロン帝国の富の源泉は失われていたのかもしれません。ペルシャ王もサルディスを介するルートではエーゲ海を制すなり、マケドニアを制すなりしないと東西交易の巨大な富の一部をギリシャなど西方ルートの支配者から請求されます。マケドニアのアレキサンダー王家もこの東西交易ルートの富がいかに巨大であるかを実感できたので、その富の源泉すべてを我がものとするためペルシャに攻め入ったと考えます。

アレキサンダー大王は勝利後バビロンに首都を据え、東方インドまでも遠征してしまいますが、東西交易の富の蓄積がないインドに攻め入っても、苦労ばかりで何も褒章が得られなかったことから重臣たちは離反し、大王を毒殺してしまったのでしょう。

フェニキアの港湾都市の今

上テイルス(tire)、シドン(sidon)、 ビブロス(byblos)などフェニキアの港湾都市をgoogle mapで調べると、古代の港が海岸から1km前後離れた丘の上にあるようです。地中海への周辺河川からの氷河溶融の流水量が減少し海面水位が下がり古代の歴史を彩った天然の良港も内陸の一部になっています。

もちろんフェニキアだけでなく現在のイスラエルの古代地中海側港町のtel akkoもその重要性を喪失したと考えられます。tel akkoの南南西38kmのやはり古代地中海交易の重要な港DORがあり、今は海岸から700mばかり離れています。tel akkoはイスラエルの発掘研究が動画を含めてたくさんあります。http://www.telakko.com/

ティグリス川、ユーフラテス川と古都バビロンの現状

メソポタミア文明のティグリス川、ユーフラテス川が現在どれだけ流水量の少ない川であるかには、言葉を失います。首都バグダッドの中枢部を取り囲むように流れている写真でも水は少なそうです。もっと衝撃的なのはバクダッドの南方87kmの古都バビロンの現状です。ローマ皇帝がアレキサンダー大王の宮殿を訪ねたときすでに荒れ果てた廃墟であったと伝えられていますが、今は幅100mにも満たない川沿いに大麦畑が広がるヒッラという街の一部のようです。すべては蓄積された膨大な氷河溶融の物語なのです。