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バビロンとペルシャ帝国の盛衰

バビロンを中心とした東西交易ルートという絶対的な繁栄基盤を保持しているはずの新バビロン帝国は、政務に興味のないできの悪い王のせいで紀元前539年東のアケメネス朝ペルシャ キュロス2世に滅ぼされペルシャ帝国に併合されてしまいます。その後ダレイオス1世はメソポタミアを東西に結ぶ従来の道路を改良延長し、西のサルディス(現在のトルコイズミールの近く)から東のペルシャの首都スーサまでの王の道を完成させます。

しかしこのペルシャ帝国も西のギリシャ方面への覇権拡大がギリシャ諸都市のの連帯強化につながったせいか、マケドニアのアレキサンダー3世によってサルディス ミレトス タルススと連戦連敗 ついに紀元前333年イッソスの戦い、2年後のガウガメラの戦で敗北し滅亡してしまいます。巨大な富の泉ともいえるペルシャ湾 地中海交易ルートを領域内に完璧に整備しながらなぜペルシャは敗北したのでしょう。アレキサンダー大王は勝利後バビロンに首都を据え、東方インドまでも遠征しますが、この時すでに大きな異変が起きていたようです。

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フェニキア港湾都市の消滅

上の地図はペトラで有名なナバティア人の交易ルートから拝借したものです。地図の上のほうに赤色でバビロンを中心に東西交易ルートが描かれ、黒色がナバティア人の交易ルートです。注目すべきはバビロンから北方ニネブェを介してトルコ サルディス方面への交易ルートが新たにできています。確かに王の道の交易ルートができフェニキア方面へとで2ルートになっています。しかもフェニキアの港の表示がなくダマスカス以西はどこの港がメインなのかわかりません。アレキサンダー3世もフェニキアのティルスこそ半島状の城を埋め立て破壊していますが、他の港町はすべて降参しています。

フェニキアの地中海沿岸諸港湾は、すでに地中海海水面の低下で港湾機能を失い、レバノン杉も払拭し、既に紀元前6世紀ごろから凋落し、新バビロン帝国の富の源泉は失われていたのかもしれません。ペルシャ王もサルディスを介するルートではエーゲ海を制すなり、マケドニアを制すなりしないと東西交易の巨大な富の一部をギリシャなど西方ルートの支配者から請求されます。マケドニアのアレキサンダー王家もこの東西交易ルートの富がいかに巨大であるかを実感できたので、その富の源泉すべてを我がものとするためペルシャに攻め入ったと考えると、新バビロニア帝国の無能の王やペルシャ帝国の敗軍の王も浮かばれるのではないかな。

フェニキアの港湾都市

テイルス(tire)sidon byblosなどフェニキアの港湾都市をgoogle mapで調べると、古代の港が今どのような位置にあるかが見えて参考になります。ただしシリアの調査が進んでないこと、berytだけは古代の港がどこか出てこないことが残念です。