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おじさん2人Podcastの叙情


おじさん2人でPodcastを行う

昨年秋からPodcastのつくり方を学べる講座を受講している。その一環として番組を1本収録する課題が提示された。私は、学生時代からの友人を誘った。友人は元々講座にも興味を持っており、ポッドキャストも好きだったため、協力を得やすかった。

収録準備から収録までの流れ

収録に向けて、具体的にどのような内容について話すのか、進行するのか講座で学んだ方法で準備した。次に、収録場所を決定し、必要な機材や環境を整えスムーズな収録を目指した。トークテーマは友人の専門分野「バンジージャンプ」(変なテーマ笑)にした。
収録は2回行った。事前に決めたテーマや内容に沿って、経験談を交えながら、リラックスした雰囲気を保ちつつ、自然な会話ができた。(アラフォー2人のおじさんが会議室でマイクに向かっているのは少し異様だが)その後、収録した音声を専用ソフトで編集し、配信を行った。

Netflixの「LIGHTHOUSE」を参考に

自分なりに今回の収録をどのような雰囲気で行うか参考にしたものがNetflixで配信されている「LIGHTHOUSE」だ。星野源さんとオードリー・若林さんが出演するトーク番組の構成を企画運営を参考にした。
https://www.netflix.com/jp/title/81641728

『LIGHTHOUSE』は1ヶ月に1回会って、1行の日記を見せ合うトーク番組。これを見ていると、収録場所を変えることで話の内容や雰囲気が変わったり、違った話の展開が生まれる。
会議室の予約ができるサービスを活用して、収録場所に変化を与えて実験してみた。1回目は場所は恵比寿(日時:年末の休日昼、私服で収録)2回目は、神保町(日時:平日の夕方から夜、スーツで収録。)結果、収録場所は結局、会議室に入るのであまり関係なかった。それ以上に、2回目の収録が平日仕事おわりで仕事モードが完全に抜けきれておらず、砕けた雰囲気が少し出せなかったと思う。配信内容、収録相手との関係性に合わせて、スケジュールを立て方を工夫した方が良いかもしれない。

釣りやゴルフに行く感覚に近いこと•近くないこと

他にも気づいたことがある。(私は詳しくないが)釣りやゴルフを趣味でやっている人を見ていると、大体待ち合わせ場所に着いて軽くコーヒーでも飲みながらダベる。そこから海釣りの場合、乗船したりゴルフなら練習をする。そこから3-4時間くらい本番プレーがあり、終了後は直ぐに解散する訳ではなく、軽く飯食ったり休憩してから帰る。おっさん2人でPodcastを収録するとあんな感じだ。
まず、落ち合う喫茶店を決めて軽くコーヒーを飲みながら、最近の話をする。そこから予約した会議室に移動。収録後は、1回目は、恵比寿から中目黒まで歩いて芸能人のサインが並んでいるラーメン屋に行ったり、2回目は神保町で夜9時くらいに、中華料理屋で麦焼酎ソーダ割りを飲んだ。

飯屋で軽く収録を振り返る。釣りに例えると、デカい魚が釣れる日もあれば、釣果なしで終わる日もある。「場数やな、」とかいいながら反省してんだか、してないのだか、軽く1杯やりながら次回の収録日程は決める。

こうした一連の行為は釣りやゴルフで過ごす余暇と時間の流れ方は近い。一方で、一連の行為によってもたらされるものは近からず遠い。
何をもたらすのか。
目的をはっきりさせないことが豊かさを生むのではないか、と思う。配信内容のクオリティを高めることにこだわらず「収録するという行為」自体を楽しむ。哲学者の國分功一郎氏は暇と退屈の倫理学という書籍で、ウサギ狩りを<欲望の対象>と<欲望の原因>の区別という形で解説する。

ウサギ狩りにおいて、<欲望の対象>はウサギである。確かにウサギ狩りをしたいという人の気持ちはウサギに向かっている。
しかし、実際にはその人はウサギが欲しいから狩りをするのではない。対象はウサギでなくてもいいのだ。彼が欲しているのは「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らせてくれる騒ぎ」なのだから。つまりウサギは、ウサギ狩りにおける<欲望の対象>ではあるけれど、その<欲望の原因>ではない。それにも関わらず、狩りをする人は狩りをしながら、自分はウサギが欲しいから狩りをしているのだと思い込む。つまり<欲望の対象>を<欲望の原因>と取り違える。

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」

ウサギ狩りの例だが、ある人にとってのゴルフや釣りという行為は近い。欲望の対象をスコアや釣果という具体的な数字と捉えると、欲望の対象と欲望の原因を取り違える行為はあるかもしれない。対してPodcast 収録のクオリティは数値化できない。なんとなく良かった、いい感じだったという曖昧なもの。何かを達成したいという欲望に縛られすぎず行為自体楽しみがある。むしろ目的がはっきりしていないことが豊かさを生むのではないか、と考えた。

目指したのは「大阪の生活史」

コンテンツのクオリティも講座で習ったのだが、講師の方が現役バリバリの方で私にはハードルが高かった。講座内容は参考にしつつ、自分自身のクオリティとしては一般人のインタビューを目指す。
参考にしたのは「大阪の生活史」著者 岸政彦
https://www.chikumashobo.co.jp/special/osaka_project/

一五〇人の語りと聞き手が共に描く大阪の人生の軌跡が紹介されている。この本にでてくる人は普通の人。そうした方にインタビューしてそれを文字起こしで、1万字にまとめている。
街中を歩いている人の人生がのぞける感覚と、それにより、語り部自身にとって価値がないものでも、読み手(他者)にとっては価値のあるものになり得るという実感がある。
例えば、あるお母さんと娘さんのインタビューで娘さんは一生懸命、お母さんの昔のエピソードを聞き出そうとする。しかし何度も聞いてくる娘に対して最後には「しつこいねんっ」と母が怒る内容が収録されている。
この掛け合いは多くの人とっては意味のないことかもしれない。なんの価値もない会話。
しかし自分にとっては、そこに大阪の懐かしさだったり、親子の仲の良さだったりが伝わってきてほっこりするエピソードだったりする。つまり聞き手の解釈次第で意味付けされる場合もある。
コンテンツのクオリティに関しては、旧友だからこそにじみ出る「出汁」みたいなものが出てくるように心がけた。

自分の体を通じて「つくった」ものの喜び

収録後、収録した音源のケバ取りを行う。「ケバ」とは、日常会話やインタビューなどに含まれている、「あの」、「えー」、「えーと」などといった、それ自体では意味をなさない短い言葉のこと。こうした言葉を削除し、聞きやすい放送に起こすのを「ケバ取り」と呼ぶ。
1人、自分と相方の会話をイヤホンを聴きながら、ケバを取っていると自分の話のレベルが低さに反省しつつ、無意識に発せられる相槌やうなづきが聞けて面白い。

ただ、一方「ケバ取り」はある種、孤独な時間だ。誰が聴くかわからないものを静かに2時間程度かけて編集する。その中には孤独がどうしても付きまとう。それでも作業に没頭するということは夢中になっているのだ。何か意味のわからない、意味不明なものを削り取り、磨き上げ、もしかしたら聞かれるかもしれない、などと思いながら、削ること。

そうした出来上がったものは、自分の身体を通じて「つくったもの」だ。社会の目的から外れ、同調からも距離をとり、「当たり前」はなく、オリジナリティを追求した先に出来上がったもの。それは決して評価されずとも、自分としては、しみじみと、ただおもしろいもの。あらゆる喜びがあり、あらゆる悲しみがあり、あらゆる希望とあらゆる絶望がある。

以 上

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