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余白は余白のままで

すきま時間ってなんだろうと改めて思う。

すきま時間にストレッチ、すきま時間にオーディオブック、すき間時間にアプリで勉強。

すきま時間は、作業と作業の合間の時間とか、ある作業をしている時に別の作業が可能な時間を指すのだと思う。作業は活動とも読み替えられる。

その“すきま時間”を能動的に活用するのが、賢くて有意義な時間だというけど、うーん本当にそうかなと思うようになってきた。

そう思ったきっかけが2つあって、1つは母がふとしたときに話してくれたこの言葉。

料理をしているときに他のこともすると、やっぱりその料理というのはその程度の料理にしかならない

母自身もその言葉を何かの本で読んだもので、私は完全にその言葉の二番煎じ、受け売りではあるけど、一理あるなと。
私自身があまり器用ではないので、あれをしながらこれをするとか、複数のことに対して同等に心を巡らせて集中できないこともある。

料理に限らず、想いが乗らなかったものというのはやっぱり出来上がりがぼんやりしているのも知っている。それは誰かの目を誤魔化せる程度にぼんやりしているかもしれないけど、自分としては何か違うな、もっとできたはずだな、みたいな。

例えば、誰かにメールの返信を書いていると、その横で子供たちが口ぐちに話しかけてくる。
返信か返答のどちらかを後回しにできるものならいいけど、メールは至急だし子供たちの保留ボタンは壊れていて「待っててね」でホールドできる最長は30秒程度だ。英語だとI got it.くらいしか書けない。

そうするとピーチクパーチク言っている子供たちへの対応もおざなりになっているし、無駄に時間がかかって出来上がった文面も(自分的には)なんだこれ、な感じになっている。その場しのぎは中途半端なものしか生み出せないなと痛感する。

もう1つは國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」を読んだこと。

著書の本筋とは違うけど本を読みながら、人って基本的には休みとか暇を欲しているのに、それを何かしらで埋めているのはなぜだろうと疑問が湧いてきたことにある。

私は休みのときに休むのが下手で、暇や退屈な時間を持て余すのが悪と思ってしまうところがある。休みたいといいながら、いざ空白の時間があると、やらないといけないことをあえて考えていたり、その時間は何か生産的なことをしなくてはという強迫観念が押し寄せてくる。

そうすると結局その時間は休みではなくなる。

すきま時間をすきま時間のままで、余白を余白のままにすることで、生まれるものとか、見えるものがあるにも関わらず、何かもっともらしい理由(自己研鑽とか社会貢献とか)をつけて結局それを埋めていたら、結局それはすきまでも余白でもないんじゃないかと思う。それはすきま時間ではなくて、別の活動時間で、別の作業時間に様変わり。これでは矛盾だ。

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これからも洗濯物を畳みながらオーディオブックとかヴォイスを聞きたくなるし、そういう日の洗濯物はもしかしたらきっちり角まで美しく畳めてないかもしれない。

そういう洗濯物には想いはこもってないし、いつも機械的にやってるから想いなんぞ込めてないし、なんなら想いがのってる洗濯物の方が気持ち悪いから別にそれで構わない。
だけど娘がまだ家にいて幼いうちは、一緒に畳むことやたまに手を止めて窓の外を眺めたり、雑音と娘の声を聞いて畳む服と時間を積み重ねていきたいなぁと思っている。

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勉強も仕事も手伝いもするべきことは前後でやってる。だから隙間は隙間のままで。
余白は余白のままでいいんじゃない。

例えば電車を待つ時間とか、電車に乗る時間をボーッと過ごす。
そういう風にできるように練習したい。

合間の空っぽをあえて埋めなくても結局何かで満たされる。

それを楽しめるのが心の余裕とか休息につながるんじゃないかなと思う。

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