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Beが書いたもんどす

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天理教に関してBeが思うことを書いた記事です。批判的なものが多いので、アンチ天理教と思われがちですが、「ホンマかいな?」と首を傾げたくなる「教理もどき」に辟易としている私は、ただ… もっと読む
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秀司さん&儀三郎さんwith Be

最近、SNS上で天理教道友社編『"逸話のこころ”たずねて』という本の朗読を始めた。 人様の前で朗読をした経験は無い。声は通らない、息も続かない。おまけによく噛む。我ながら酷いものだと朗読しながら笑ってしまいそうになるが、思うところがあり、恥を忍んで続けている。 さて、『”逸話のこころ”たずねて』で取り上げられているのは、タイトルからもお分かりのように『稿本天理教教組伝逸話篇』に登場する先人たちである。 天理教を信仰する方であればその名を聞けばすぐにピンとくる、道の黎明期を生

(続)春季大祭を迎えるにあたり-『御教祖御臨終のおさしづの考察』より-

明後日はいよいよ春季大祭です。明治二十年陰暦正月二十六日に思いをいたす上での参考になるやもしれぬ、と感じましたので、取り急ぎ記します。 前々回の記事『春季大祭を迎えるにあたり-明治二十年陰暦正月二十六日のおさしづ割書から-』でも掲載しましたが、以下に明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後の『おさしづ』の割書を引用します。 この割書に続いて とのお言葉が下ったのは皆さんご承知の通りです。 『みちのとも』立教99年(昭和11年)6月号にこの時の状況をさらに詳しく記した

地震は神の残念・立腹の顕れなのか

妄言の誹りを恐れず書きます。 皆さんは1853年(嘉永6年)から1859年(安政6年)にかけて、日本でマグニチュード7を超える地震が毎年発生していたのをご存じでしょうか。嘉永6年は立教から15年後にあたります。 『稿本天理教教祖伝』に という記述がありますが、ここで触れられている大地震は安政南海地震と呼ばれる巨大地震を指します。この地震はマグニチュード 8.4。最大震度7。紀伊新宮、土佐中村に大きな被害を与え、特に紀伊水道や土佐湾では最大16.1mの津波が起きました。 こ

春季大祭を迎えるにあたり-明治二十年陰暦正月二十六日のおさしづ割書から-

本年最初の記事になります。 盟友いっけん氏によるnote『春季大祭を前にして、明治20年陰暦正月26日午後の割書とおさしづを読む』を読んで思ったことを記します。 いっけん氏は上記の記事の中で、割書を「考察」するのではなく「味わう」ことに注力したと言います。 また「この記事の思案は私の“肌感覚”であって、教学を修められた先生方の考察には到底及ばず、しかも及ぼうとも思わず、陰暦正月26日の『割書』『おさしづ』を音読すればするほど伝わってくる、おやさまお隠れ当日に至る情景を追い

教祖(おやさま)のご日常と存命の理について

教祖のご日常先日、存命の教祖のお給仕をされている本部婦人さんからお話を聴く機会を得ました。仮にS婦人としておきます。 ※天理教の教祖存命の理については天理教公式WEBページで 本部になんの伝手もない僕などには窺い知ることのできなかった教祖のご日常について、事細かにお聴かせいただきましたので、そのお話をご紹介いたします。 以下にS婦人のお話の要点を記します。 教祖のご日課 まずご日課についてです。 教祖は朝づとめの30分前にお目覚めになると、まずご洗顔あそばされ、その後お茶

青春の蹉跌 -或いはクリスマスの思い出- 

今回の記事は天理が舞台になってはいるものの、信仰的な話は一切出てこないことをご承知置きいただいた上で、サラリと読んでいただければ幸いである。 先日、出入りの業者さんが置いていったクリスマスケーキのチラシと注文書を手に取って、ああ。もうそんな季節なんだなと思いつつ、天理教の教会にクリスマスケーキの注文書って、キリスト教の教会に注連縄やお線香のチラシを持ってくるようなもんだよなあ。と、なんだかモヤったのだが、もはやクリスマスやバレンタインデーが国民的行事になっている時代に、そん

疑似家族 -僕を育ててくれた人々-

昭和も半ばを過ぎたある日、三歳の僕は母に手を引かれ、初めて天理教の教会の門をくぐった。 父の失踪から2年が経っていた。(『邂逅』を参照) 入信して間もない信仰初代の母が修養科への入学を決意すると、同居していた母の父母(つまり僕の祖父母だ)は烈火の如く怒り、猛反対した。 「天理教のようなおかしな宗教に入るなら、孫はワシたちが引き取って育てる」とまで言われた母は、理の親である布教所長(女性)に泣きついた。 まだ歳若く独身だった布教所長が更に所属教会長に相談したところ、母の修養科

『生命(いのち)の進化』は現代の『泥海古記』である

著者との妙な縁から『生命(いのち)の進化』をかついで行商に出たり、あるいはTwitterのネタにしたりしておりますが、今日は「元の理」と、その元になった「泥海古記」について触れてみます。 まず「元の理」が『天理教教典』の第3章に収められた経緯について簡単に記します。 教祖は明治14年(1881)頃から、特に熱心に信仰する人々(高弟の方々)に「こふきを作れ」と仰しゃられ、明治15年から明治20年に現身をお隠しになるまで、折に触れて人間と世界の創造説話である「元始まりの話(こふ

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NEW(新着) ● 中山秀司-ひながたの同行者- ● 秀司さん&儀三郎さんwith Be ● (続)春季大祭を迎えるにあたり-『御教祖御臨終のおさしづの考察』より- ● 地震は神の残念・立腹の顕れなのか ● 春季大祭を迎えるにあたり-明治二十年陰暦正月二十六日のおさしづ割書から- ● 教祖(おやさま)のご日常と存命の理について ● 青春の蹉跌 -或いはクリスマスの思い出- ● 疑似家族 -僕を育ててくれた人々-  ● 秋季大祭神殿講話(真柱様)   ● 箸休め-「いんねんの

「いんねんの教理」雑感

天理教を信仰する皆さんがお好きだったり、お嫌いだったりする「いんねんの教理」と通称される教えについての雑感です。サラッといきます。 『前生のいんねんって何なん』で、「いんねんの教理なんか大嫌いだ!」という、教会長にあるまじき記事を書きましたが、今回は若干前向きに考えてみようと思います。(ホンマか?) 教祖が語られた「前生のいんねん」についての逸話や口伝は数多く残されています。 また、明治20年陰暦正月26日以降に本席、飯降伊蔵様を通して語られた『おさしづ』の中にも「前生の

逸話の背景「一代より二代」 

この逸話は山澤為造さんが25才の頃のお話です。 僕はこの話がとても好きなんです。 特に「神様はなあ『親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている』と仰っしゃりますねで。」というくだりが。 信仰に引き寄せられている私たちが、等しく神様が待ち受けてくださっていたお互いであることを教えてくださっています。なんと心強いお言葉でしょうか。 信仰初代の方であれば、親という言葉を尊属としての親ではなく、いわゆる”理の親”と置き換えて考えればいいと、私は思っています。 さて山澤為造

おさづけと祈り

今回は短い記事をリリースします。久々にお道の話です。 さて、世の中にはどれほど願っても、おさづけの理を拝戴することができない方々がいます。 仮にケースAとしましょうかね。それはこんなケースです。 ●天理教を信仰していない人。 ●教会に所属していない人。 ●9度の別席を運んで(聞いて)いない人。 まあ、当たり前っちゃ当たり前です。なにせ現在はおさづけ拝戴の必須条件である別席が、厳密に制度化されているのですから。 じゃあ、こんなケースはどうでしょう? ケースBです。 ●腕また

続 おさづけと祈り

『おさづけと祈り』の続編です。 まず断っておきます。僕はおさづけに関して、それを渡す方の正統性について論じるつもりはありません。過去に様々な角度から調べ尽くした結果、自分なりの答えを得たからです。上田ナライト様以降のさづけを渡す者の選定がは神意に基いていないが故に無効である。という見方もありますが、そこにさほど意味は無いという結論に達しております。僕の信仰の深部に根ざすものから解を得ておりますので、異議を唱えられたとしても争いようがありません。 また、別席については過去に『

結 おさづけと祈り

「おさづけと祈り」、「続 おさづけと祈り」に続く第3弾です。 前回、前々回と、腕や手指に障害のある方がおさづけの理を拝戴できないケースについて書いてきました。 すると、嬉しいことに盟友のIKKENさんが、本部では現状どのように対応しているかを関係者に尋ねてくださり、得た回答を僕に知らせてくれました。これは非公式なものであって、本部の回答ではないことをご承知おきください。 今回はその質問と回答を読んで思ったことについて記します。 おさづけ拝戴はゴールではない まずIKKE