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箸休め -近況報告+心境報告-

敬愛する作家、浅田次郎が

日本語の基本、いい文章を書く心構えは、いかに最少の文章で最大の世界を言い表すかっていうこと。

浅田次郎

と言っています。
本当にその通りだと思います。
僕のように、これでもか!というくらいクドクドと書いていてはダメなのです。
書くこと自体は早いほうだと思っています。夜中に書いて、そのままの勢いでnoteに上げて、翌朝読み返して絶望的な気持ちになる。その繰り返しです。だから気づく度にこっそり修正を入れています。

努力精進よりも肝要なものがある。それは渇えじゃ。
持たざる者ほど、持っておるのだ。 水も肥も与えられずに、それでも咲かんと欲する花は、雨を力とし、風すらも肥とする。そうしてついに咲いた花は美しい。

浅田次郎『一刀斎夢録』より

たったこれだけの文章で、とてつもない世界観を表すのが浅田次郎の魅力なんです。まったく無駄がない。装飾もない。
小説の登場人物のセリフがそのまま「格言」になっちまうんです。
こんな文章をいつか書きたくて、続けているんですけどね。
天理教界隈という狭いコミユニティの中ですら、届く言葉を紡ぐことは本当に難しい。

いつかかくありたしと願いながらも、努力精進すらままならぬ貧乏人はひたすら飢え渇するほかはあるまい。
その拠るところも捉むものもない飢渇こそが、やがて実力となり技となる。

浅田次郎『一刀斎夢録』より

やはり僕に足りないものは「飢渇」なんでしょう。

前置きはこれくらいにして、最近の心境の変化などについて書いてみます。
某掲示板で、野良犬教会長と揶揄されて以来、すっかりその通り名が気に入ってしまいました。実に的を射たネーミングだと思います。まさに名は体を表す。
あちこち噛みついていた野良犬が、ひょんなことから、いわゆる「バリ天さん」たちとお近づきになったわけですよ。
彼ら彼女らにとって僕は異物だったと思います。noteでとんがった批判記事を書き、神名流しの批判なんかもしていましたからね。彼らから見れば僕は改革派・批判派がぶっ放したパトリオットミサイルですよ。
「とんでもない奴が来たぞ!ヤバいんじゃね?」と、間違い無くザワついたでしょう。
こちらにだって、もちろん場違い感はありましたよ。
周囲は至極まっとうな天理教人。心まで清潔清楚な人品卑しからぬ方々ばかりですから。
こちとら薄汚れて眼をギラつかせた野良犬ですから。
でもね、話してみると結構通じるものがあったのですよ。彼らだって色んな不満や疑問を持っていることが分かった。そんな中で歯を食いしばって信仰している方もいる。
考え方が少々違っても、人は分かり合えるものだと気づきましたよ。
その時思ったのですよ。
「人の信仰を嗤うな」とね。嗤っちゃダメだとね。
だから、ちょっとシフトチェンジしました。
こんなことを書くと

女の心変わりは許せても、男の変節は許せない。

浅田次郎 『きんぴか① 三人の悪党 陽のあたる密室』より

とか言ってお怒りになる諸兄もいらっしゃると思います。
でもそれは違います。僕はそもそもどこにも属していないのですから。
如何なる時も、BeはBeなのです。
僕の本質は何も変わっちゃいません。今でも問題意識は持っていますし、教団組織そのものや、教団教理に対する疑問や誤りは今後も指摘していくつもりです。
ただし、批判や指摘だけでこの先の人生を終えるつもりはありません。
批判とか指摘をnoteで書こうとすると結構なエネルギーが必要です。そして時間も。批判するためにはその根拠を示さなければならず、出典の確認に時間を取られます。それを求めて天理図書館に通うことだってある。
決して「疲れた」と言っているわけではありませんよ。現実問題として時間が足りないのです。
僕がnoteに記事を書けるのも、この先数年くらいのものでしょう。
残された時間を批判や指摘だけに消費するのではなく、今後は「お道の中にいながらにして苦しんでいる人、勇めないでいる人、悩んでいる人を少しでも元気にする」という活動にも時間を使いたいと思ったのです。そしてその活動は既に始まっています。
そんなわけで、今後とも野良犬教会長Beと、Beのライフワークであるnoteをよろしくお願いいたします。
さて、果たして今日は届く言葉を紡げたのでしょうか。
届くことを祈って。
Adiós amigos.

文責/Be
校正/Dr.Charlotte.Ozaki

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