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 12月10日(日)の「クラシック音楽館」では、ニールセンの《アラジン》組曲が放送されます。
 なんか予習になることを書き留めておきます。

 ていうか……数日前に静養が必要なほどのケガをしてしまって、日々、痛くて死にそうです(T_T)。
 散漫で意味不明なものになるかもしれませんが(ていうか多分なる)、痛くてキチンと思考できないんだな……とご了承くださいませm(_ _)m




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 ① 楽譜をチェックしよう!

 まずは、聴きながら見ることのできる楽譜を YouTube から。

 とくに《イスファハンの市場》は、オーケストラが4つのグループにわかれて、全く異なるメロディをラヴェル「ボレロ」がごとく延々と繰り返す……という前衛的な音楽なので、一度は楽譜を見といたほうがいいです(この動画では、12:00 をすこしすぎたところで出てきます)。ていうか、こんな親しみやすいメロディで誰も見たことのないようなことするニールセンはこわい、といつも思います。
 もし余裕があるなら、《イスファハンの市場》の演奏会の動画も探してチェックしてみてください。指揮者は最初と最後にちょっと指示をするだけであとは出番がなく、オーケストラが自律的に演奏を進めていく、という、まずは見られない光景が見られたりします。今回、ブロムシュテットさんの代役として指揮台に立つ高関健さんはどのような指揮をするのか……あらかじめ想像を膨らましておくのもよいかもです( ´ ▽ ` )ノ


 ② アレンジ版をチェックしよう!

 これも YouTube のほうで視聴しておいてもらいたいのが、The firebirds のジャジーなアレンジ版。
 イカれててイカしてる、ちょっと不良なニールセン。

 この再生リスト↑のなかに収録していますーす( ´ ▽ ` )ノ
 Torvet i Isfahan 以下4曲がそうです。Aladdin's Dream の動画には、ヒンドゥーの踊りも収録されています。

 クラシック音楽は眠くなる(-_-)zzz……という方は、こーゆー方面からチャレンジするのもありかもです。
 また、このように、自国の音楽的な伝統や財産を時代にあわせてリフレッシュしようとする試みがさかんなデンマークをうらやましく思います。現在放送中のNHK朝ドラ「ブギウギ」は服部良一のメロディや淡谷のり子の歌唱を、日本人が再発見できるいいチャンスだと私は考えてるんだけど……いい流れが生まれたらいいのになぁ。


 ③ 耳の基準となる録音をチェックしよう!

 YouTube はマジでありがたいですね……まずひとつ目として、現在のデンマークでは、「アラジン」がどのように演奏されているかチェックできるこれを。

 打楽器といえば、私はNHK交響楽団のティンパニ奏者のおふたりがイチオシなんだけど、DR交響楽団(デンマーク放送交響楽団)の打楽器陣が和気藹々としているのを見るのも大好きなのです。奏者としての自信と誇りがかいま見えるがカッコいいし、仲いいし、そしてなにより、いつみても楽しそう!……それゆえか、ほかのオーケストラにはない音色の豊かさを感じられます。

 ニールセンの管弦楽について、他の作曲家にはない特徴をあげるとしたら、打楽器がイキイキしてることと、金管が力強くあざやかなことで、どちらも単にパワーで押す楽器としては扱われていないことになるかとおもいます。しかも「アラジン」は異文化を取り上げた音楽で、かつ、組曲には舞踏の曲も多いです。それゆえに、打楽器と金管の魅力と存在感とへの期待は、いやがうえでもたかくなります。
 今回の放送では、この魅力をNHK交響楽団がどう料理するかがチェックポイントかな、と個人的にはおもってます。N響は特に金管が弱いです(T_T)。だけど、去年ブロムシュテットさんが交響曲第3番「シンフォニア・エスパンシヴァ」を振ったときには、「N響の金管ではエスパンシヴァは絶対ムリ(´-﹏-`;)」との個人的な予測を裏切る、刷新された演奏を聴かせてもらうことができ、感動しました。とはいえ、「アラジン」をやるにはまだまだ弱い、と私は感じてます。ネガティブな予測が、今回も鮮やかに裏切られますように(-人-)


 それから、歴史的な録音も要チェック。

ただいま捜索中ですm(_ _)m

 このシリーズはどの録音もすごいです……オケのレベルもすごいし、ニールセンと時代を共有したひとたちの演奏は、すさまじいです。なんべん聴いても勉強になります。ブロムシュテットさんは「アラジン」については、この時代の演奏をベースに解釈されてるのでは?、と私は考えています。


 ④ Oehlenschläger の歌をチェック!

 いますこし正確にいうと、

 ニールセンが Oehlenschläger の詩にメロディをつけた歌

 をチェックしてみよう、というウチならではのちょっと独自の視点。

 「アラジン」の原作者は Oehlenschläger
 デンマークの黄金時代といわれる時代の代表的な文学者で、アンデルセンもこの時代の一員です。とはいえこのころ、デンマークは国家としてはボロボロだった(たぶん、太平洋戦争に負けた直後の日本みたいなズタボロさだったんだろうな……と想像してる)んだけど、逆に文化についてはあらゆる方面で人材や傑作が輩出された時代でもあります。

 ニールセンはこの時代の詩人については、Oehlenschläger だけではなく、アンデルセンGrundtvig の詩にもメロディをつけてるんだけど、びっくりするのが、

 詩人の個性がメロディに反映されている Σ(゚∀゚ノ)ノ

 ってこと。


 とくにはっきりわかるのが Grundtvig で、この人物がいかに偉大で、デンマーク人の精神の背骨とでもいうべき甚大な影響をあたえた凄い人だったのかが、ニールセンのメロディを聴いてるとじわじわと伝わってくるんです……といっても、日本ではほとんど紹介されてないので、具体的な業績とか思想とかはよくわかんないんだけど。
 Grundtvig につけられたメロディを口ずさんでると、目が明るくなり、背筋がしゃんと伸びる思いがします。

 このウィキペディアを読むと、たしかにメロディから感じ取られるような凄い人だったということが、逆によくわかりました……。


 アンデルセンについては、ニールセンらしい個性は背景に退いて、いかにもアンデルセンな繊細さがメロディの全面に出ているという。アンデルセンって実際にもこんなふうに語ってたんちゃうかな……と息遣いがつたわってくるほど。

Min lile fugl hvor flyver du?(私の小鳥、お前はどこを飛んでいるの?)


 で、Oehlenschläger については、

 なんだかマジカルな転調が必ずついてる!( ゚д゚)

 っていうのが特徴なんです。
 これは他の詩人の歌にはない特徴です。とてもわかりやすく転調しているので、ニールセンを聴き慣れてないひとでもはっきりわかると思います。で、この転調のおかげで、Oehlenschläger の歌はめっちゃ音が取りにくくって……鼻歌なのに音をハズしてどっかへんなとこにいっちゃうのがしばしば(´-﹏-`;)ムズイ
 逆にいうと、Oehlenschläger の詩の特徴は、ふと異世界に誘われ、彷徨うがごときもの、といっちゃっていいんだろうと思ってます。

 Underlige aftenlufte(不思議な夜の空気)
 もともとのタイトルは「ホームシック」。
 フォークシンガーがギターを片手に爪弾いてるみたいな、めっちゃ親しみやすいメロディが偉大な文豪の詩についてた……ということを後で知り、びっくり。

 hvor sødt i sommeraftenstunden (なんと甘美な夕べのひととき)
 このひとの歌声は地味だけど、聴けば聴くほどよさがじわじわわかってきます。

Nu er da våren kommen (ああ、春が来たんだ!)
この歌のこの録音についてはあとで述べます。

 「アラジン」ではおそらく、Oehlenschläger のことばそのものがストレートに用いられていたわけではなかったとおもいます。劇中歌にしても、おそらくは別人によって書かれた脚本や歌詞に基づいてニールセンが作曲しているわけで、Oehlenschläger的なマジカルさがそのまま曲調に反映されているとは考えにくいです。
 ですが、「アラジン」への理解を広げるひとつの要素として、Oehlenschläger の詩につけた歌について知っておくのも損ではないのではないかとおもいます。


 ⑤ 可能なら全曲録音をチェック!

 「アラジン」はもともと組曲としてまとめられていたものではありません。ニールセンが演奏会でよく取り上げてたピースが、死後、組曲としてまとめられたものです。
 実はわたし、ニールセンのなかでも「わけがわからんから聴きたくない(-_-;)」と長年放置してたものがふたつあって……ひとつがピアノ曲全部で、もうひとつがこの「アラジン」組曲。だけど、YouTube で劇音楽としての「アラジン」全曲録音がアップされてる(どうも消えてるっぽいので、法的にはアウトのものだったんだろうと思う)のを見つけて聴いてみて、衝撃だった……

 めちゃめちゃビジュアルが見えるで……!(´゚д゚`)

 そう。
 原曲のほうが長くて情報がデンマーク語しかないから意味不明なはずなのに、組曲のほうを聴いたときの「なんじゃこのゴチャゴチャは?」という違和感がまったくなかった。歌詞もセリフもわからんし、どの音楽がどの場面かまったくわからないんだけど、

 ひとことヒントがありさえすれば
 音楽から場面がありありと見える自信があるぜッ!(๑•̀ㅂ•́)و✧

 と、感じながら、1時間くらい夢中でスマホに耳を傾けてました。ていうか、初めて聴く長大な曲(しかもなんの情報もない)にここまで集中できて夢中になれるってことまずない……つまり、たいがいは途中で飽きてしんどくなる(例えば、グリーグのペールギュントの全曲録音は、めちゃくちゃしんどくて何回も途中でやめたし、5周くらい聴いてからやっと理解が追いついてきた(-_-;))。
 それから、組曲に取り上げられている楽曲も、実に自然に全体のなかに馴染んでました。

 ということで。
 この経験がきっかけで、「アラジン」組曲を聴けるようになりました。どうも組曲のなかにストーリーを見出そうと、無意識のうちに無理筋なことをしてたのが聴きたくなかった原因みたいです。
 もともとのストーリーとは切り離されて、ただ音楽的に関連があるものが物語の進行とは関係なく並べてある、そう理解しながら、「ニールセンはこれらの楽曲のどこに連関や魅力を見出してセレクトしてたんだろう?」と考えながら聴くうちに組曲ならではのよさが見えてきたようにおもいます。

 でもとにかく。
 組曲と全曲録音はまったく別物でした。
 入手のチャンスがあるなら、CDなりなんなり探して、とにかくいちど聴いてみてほしいです。ニールセンの音楽によるビジュアル化の技量の凄さがよくわかります……ていうかなぜこの演目が演奏会の定番プログラムになってないんだ、とすら私は思ってます。HartmannVølvens spådom(オオカミの予言)もそうだけど、北欧のクラシック界は異様ともいえる名曲を隠し持っています。


 ⑥ アザーンをチェックしよう!

 そうそう。大事なことを忘れてました……。

 以前にもかきましたが、海外旅行にいったひとが YouTube にあげている「街角できこえてくるアザーン」をいっぱい聴いてから《イスファハンの市場》を聴いてみてください……オーボエやクラリネットがまんまアザーンを唱えているのがきこえてくるはずです。

 これにかぎらず、ニールセンのリアル音声のコピー能力はずば抜けています
 さきほどあげた Nu er da våren kommen も、野生のナイチンゲールの声をやまもり聴いたあとで聴いてみると……

 なんかピアノの右手が
 ナイチンゲールの鳴き声っぽく聴こえる!?(´゚д゚`)

 んです。
 ただし、これはさきほどあげた録音オンリーの現象で、他の録音ではこうは聴こえません。私はこの歌については、

・歌     ……詩の主人公
・ピアノ右手 ……ナイチンゲール
・ピアノ左手 ……小川のせせらぎ
  (ナイチンゲールも小川も1番の歌詞に登場します)

 という三者の歌が自然のなかで独立して同時に流れていることを描写している、と解釈してます(ピアノ右手は主人公の奏でるハープの音、という解釈で演奏している、と考えられる録音もあります)。この歌もまた、4つの音楽が独立して平行して流れていく《イスファハンの市場》と同じ思想でかかれている可能性があると私は考えています。


 ⑦ 異文化への態度について考察してみよう

 これはかなり個人の感想……になってしまいますが。

 ゴッホの浮世絵を模した絵画や、マーラーの中国風のメロディに対して、

 いや……
 その東洋感は、なんかちょっとちがうんです(-_-;)

 とむず痒いような居心地の悪いような、勘弁してくださいm(_ _;)mと土下座したいような気分になったりしませんか?

 私はこの、ヨーロッパから見た東洋像……ってのがどうも苦手で。
 それだけでなく、ストラヴィンスキーの「春の祭典」に見られるような、異文化の異質さを著しく誇張して見世物に仕立て上げるかのような眼差しが、どうしても好きになれないのです。

 逆に、先日最終回をむかえた実写版「パリピ孔明」。
 日本人としては、三国志のパロディとしても、音楽番組としても、120%エンジョイさせてもらったんだけど(≧∀≦)b……中国のひとたちの耳目にはどううつってるんだろう(;´д`)と、ちょっとオドオドしてしまったりしたりもします。


 だけど、「アラジン」にはそのような居心地の悪さや勘弁してくださいとでもいいたくなるような誤解は感じないんです。むしろ、《東洋の祝祭行進曲》や《イスファハンの市場》の3番目のメロディを聴いていると、殿様の籠もる艶めく黒と金の装飾も絢爛たる籠を中心にした大名行列が、重々しくもしずしずと、延々とお供を連ねながら進んでいく様が想起されるような気がしてきます。金管が高らかに、「したーにー、したーにー」とでも露払いしているかのように聴こえてしまうんです。

 そう。
 「アラジン」を聴くと、
 自分のなかの東洋が呼び覚まされるんですよ。

 君主の威圧と抑制が効いた下での、羽目を外したかのような爆発的な豪奢がよく描写されている、とでもいいましょうか。もし「アラジン」の舞台上にちょんまげの武士がまざっていても、私は違和感を感じないとおもうし、むしろつきづきしいとさえ感じるかもしれません。

 それから「黒人の踊り」!……なんか自分もいっしょに踊りたくなる。完全にノリがよさこいとか阿波踊りとかねぶたのラッセラー!
 ニールセンも、「アフリカ楽しい! このノリは好きかもしれん!(∩´∀`)∩」とノリノリで作曲したにちがいない、なんて想像がふくらんでしまう。
 なんというか。他人事ととか見世物とかじゃない。民族とか文化とかの垣根を超えて、自分も一員となっていっしょに躍動したくなる、躍動に誘うエネルギーがある。そこが地元の盆踊りとおんなじ。

 うまく説明できてませんが、ニールセンの描く東洋は、他の欧米の芸術家が描く東洋とは全く違う。同じ東洋人として自分事に感じるし、よくぞ描いてくれたと感謝したくなってくる。

 ということで。
 いささか強引で説明不足ではありますが、「ニールセンは、自らの手で異文化の音楽を創出するにあたり、異国の音楽にどのような態度をとっていたのだろう」……と「アラジン」を通して考察することは、文化の盗用云々が取り沙汰される現代社会において、無駄にはならないと思います。
 あるいはここにもニールセンのコピー能力の本領が発揮されているのかもしれませんね(*^_^*)


・◇・◇・◇・


 以上。
 不備や脱落がありつつ、羅列してみました。

 怪我が痛い。゚(゚´Д`゚)゚。……っていうのが、こんなにも思考力を削ぐものだとおもってもみませんでした。8割ぐらい、もっていかれた気分です。とくに書き始めた日は鎮痛剤も効いてなくて、頭のなかは「痛い、助けて、痛い、助けて……(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)」しか考えられなくて。
 いまは薬が効いて、患部に負担がかからないかぎり痛みを感じることはないですが、そこはかとない違和感はあり、常にそちらに気を取られている感じです。だから、自分が音楽のなにに魅力を感じて、どんな映像が見えてて、何を伝えたいのか……ということに集中したり、焦点を当てたりすることがどうしてもできません。
 慢性的な疼痛に悩まされてるひとたちの辛さをかいま見たおもいです。めっちゃ生産性が下がるし、QOL下がるし、なにより本来持ってるパワーが全開できないのがメンタル的に辛すぎる……_| ̄|○ il||li

 抜けている動画は、いったん休息してから探します。
 スコアのリンクとかも、余裕ができてから貼りたいとおもいます。
 とりあえず、日曜日の放送の予習に間に合えばいいな……と祈りつつ投稿します。


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 《番組視聴後の感想》
 
 端的にいうと残念な演奏でした(T_T)。
 逆にいうと、特にイスファハンの市場については、指揮者にもオーケストラにも熟練が必要な難曲なのだな、ということを思い知りました。
 そりゃそうです。バッハのオルガン曲が5声でかかれてて、それぞれの旋律を別々に耳で追いかける……なんてことですら素人の自分にはすでにムリ( ;∀;)。ニールセンはそのうえにくわえて、まったく違う音楽を4つ同時に鳴らせ(しかも違和感なく!)と要求してるのですから。

 いまアイデアとしてもっているのは、イスファハンの市場を、ふつーにふつーのクラシック音楽を聴く耳で聴いちゃいけないし、ふつーにクラシック音楽をやるノリで音楽を走らせちゃいけないんだろうな、ということ。もしかしたら、能楽を聴くときと同じプログラムを走らせながら聴く方がよいのかもしれない、ということ。
 このへんは人それぞれの話になってきますが、私は能楽については一人ひとりの奏者を耳で追いかけるのではなく(理由は、無理だから)、自然の音を受容するときと同じノリで、全体としてガバッと流れを捉え、通過させるようにしています。瞑想して、自分を無にして環境音を受容しているのと同じ感覚なのだろうと思います。
 だからなのか、イスファハンの市場は自分のなかでは、音楽というよりは、演奏会開演前の音合わせの、無秩序だけど無目的ではない音の群がりを聴く心地よさ、と同じところに分類されてます。

 うーん……とはいえ、自分が演奏者のひとりとなったり、指揮台に立ったりしたときにそれができるか……って考えるだに、難しすぎるとしか思えない(~_~;)
 当時のデンマークには、ニールセンの無茶な要求にこたえられる力量をもったオーケストラが存在してた、ってことだけは間違いなさそうです……それはそれでスゴいコトですよね(@_@;)





いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。