読書が完了した状態とは、◯◯に△△できる状態のこと。

こんにちは、すばやい人事ことべーちゃんです。今日は、なんてことはない、ただの日記を書いています。

いきなりですが、僕の趣味は本を読むことです。

毎日1-2冊くらい読んでいるので、1ヵ月あたり30-60冊くらい読んでいます。ニュース記事とかは別で毎週1000記事くらい読んでいると思います。

ゆっくり読むのも好きだし、スピーディに読むのも好きです。目的やその日の気分によって、読み分けています。

情報収集目的の場合は結構速くて、1時間に5冊とか読むときもあります。
ビジネス書や学術書系はこっちですね。

でも、言葉そのものを楽しみたいときは、ゆったり読むようにしています。
それこそ、200pの本を1週間以上、ちびちびと勿体ないというように読んでいます。

でも、読書は読んだ量には全く意味がありません。

最終的に、実際に活きるかが問題だと個人的には考えています。

「俺、1年で100冊読んでるんだぜ〜」って見栄を張っている時期が、僕にもありました笑。それなりに読書をしてたので、知識も人より多く、人よりいい人生を歩んでいるような気がしていました。

でも、それは全く本質的ではありません。往往にして、数値目標というのはそれ自体に意味はなく、その行動をとるモチベーションの維持や、行動結果の視認性を高める目的を持っています。その代わりに行動の意味を捨象してしまうのです。

ある日、会社で仕事をしていて、本で読んだ知識が活かせそうな場面がやってきたのですが、僕は、あのとき本で読んだはずの知識が活かせないどころか、うまく説明もできないというしょぼしょぼな状態に陥ってしまいました。同僚に話をするときも、どうも、「あれ、、、なんだっけな、、」というように言いよどんでしまいました。この現象は数回発生していて、さすがに「僕は何をしているんだ!」という気持ちに駆られました。

よく、「知識だけあっても、実践できなきゃ意味ないよね」という人がいます。確かにその通りです。実際に生きなければ、存在していないのと同義でしょう。

しかし、読書好きを語る人の多くが、その本で重要な情報を説明すらできないまま、その本を読み終えたような気になっているのではないでしょうか?
そもそも、自分の頭にいつでも引き出せる形でしまわなかったから、引き出しを開けても何もないのではないか?そう考えるようになりました。

要するに、「自分の言葉で、ちゃんと覚えてから、その情報を行動に反映する」という一連の流れの、最初の段階で止まっているのではないか、と思ったのです。

僕は、あのとき、うまく説明すらできませんでした。説明できないということは、言語化できないということ。言語化できないということは、理解していないということ。理解していないということは、再現性のある行動が不可能だということ。

実際に活かすための読書を公言するなら、その内容を他人に説明できるまで、自分の言葉に直して、インプットする必要があるのだと思うのです。

読書が完了した状態とはすなわち、他人に説明できる状態のこと。

読書をするときは、「あ、この文章、◯◯さん好きそう」とか、「この情報、◯◯に教えてあげなきゃ」というように、友達に話をするつもりで、楽しく読めたらいいなと思いました。

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