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陰キャ 陽キャ どっちでもいいよね part2

part1をまだお読みでない方へ


お気づきの方も居られるかとは思いますが、私は思考があっちこっち行きます。
行って帰って来られる時もあれば、行ったっきりになることもあります。読み手の苦にならないように、なるべく論理的に整えて書くようには心がけますが、大学のレポートのように堅苦しくなっても嫌だなぁ、なんて思ってます。私の"思考が迷子になっている状態"も、疑似体験として楽しんでいただければ助かります。それでは、part1の続きです・・・



そんなこんなでコロナによってかき回された我々でしたが、今となっては傷も癒えてきて、それなりに穏やかに過ごしています。
少なくともコロナの時よりは精神的に健康な気がします。

でも…悔いが残っていることもあります。。。


建築は大きく分けると三つの要素からできています。
意匠、構造、設備。
・「意匠」はその建物のコンセプトやデザインを決める。
・「構造」はその建築を構造上成立させるために、力学的な観点から助言を行う。
・「設備」は利用者の快適性の向上を目指し、熱や光などの環境面の助言を行う。

(ちなみに、本ブログにおいて建築に関する言及は主に筆者の勝手な解釈で行います。基本的には気楽に建築を語りたいという気持ちです。ですがもし、ブログ中で度を超えた勝手すぎる解釈があれば、指摘していただけると幸いです。)


そして、建築学科においてどうしても輝くのは意匠設計です。
というか、大学の授業で自分の個性が出せるのが意匠ぐらいしかありません。
構造や設備は座学が多く、基本的にインプットの作業になります。
そんな中、意匠はわかりやすいアウトプットの授業です。

建築で言う所の「デザイン」は、見た目の美しさの追求だけではありません。
そこで過ごす人々、周辺地域との関わり、時には地球環境に与える影響も考え、
建築のあり方の提案として総合的なデザインをしてやるのが意匠設計となります。

そして、大学の意匠の授業においては、住宅なら住宅、学校なら学校といった課題に対して、それぞれの学生がそれぞれの思想のもとに設計し、自らの案を表現した図面、模型、プレゼンに対して評価を受けるというものです。

ここで残酷なことに「できるやつ」「フツーのやつ」に分かれることになります。
優秀な作品を作った学生は優秀者として選出されるのですが、常連がいるのです。
彼らができるやつです。それ以外の者はフツーのやつです。
「優秀者以外の作品も良かった」と言ってくれる先生もいますが、正直、“フツーのやつ”である我々からすれば、その言葉がなんのフォローにもならないことを知っています。
だって、優秀者の作品と目の前にある自分の作品とを見比べればわかります。
雲泥の差。

「食とは何か」がわからない人でも、大トロの美味しさはわかります。
「芸術とは何か」がわからない人でも、ピカソの絵を見て「タダモンじゃないな」と感じ取れます。人間の五感は優秀です。
二物を見比べて「理屈はよくわからないけど、なんかこっちの方が良いな」と言えるのです。人間は創作よりも批評の能力の方が優れているのかもしれませんね。
まあ、それは良いとして。

私はそんな悔しい思いを何度か経験し、「けっ、なにが意匠設計だ」と少し捨て台詞ぎみに「意匠から離れたい」と思うようになりました。
でも、本当は意匠設計の世界が豊かで楽しいものであることを知っています。
いつか意匠設計で花開きたいなと思ったりもします。


そんな煮え切らない思考をしつつも現実的にはいつまでも執着するわけにもいかず、誰しもそろそろ進路を決めなければいけなくなります。
(ちなみに、私は勝手に自分のことを「意匠で咲けなかった負け組」と思っていますが、それはあくまで私が個人的に、意匠=花形と思っているだけであり、建築学生みんながみんな、意匠=花形と思っている訳ではないと思います。そのため、私は構造や設備に行った他の人たちのことを負け組とは全く思いません。むしろ、「人には向き不向きがあるんだから、自分に適した進路を選択すべきだろう」と、私よりはるかに成熟した思考をしている人の方が多いかもしれません。)

皆それぞれが自分の道を選択していきます。
私はというと、設備の道を選択しました。
まだその道を歩み始めたばかりですが、なんと設備の道で手応えがあるのです!
わずかではありますがね。

これまでインプットばかりだった設備の授業にも、意匠設計のようなアウトプットの場が出てきて、そこで少し手応えを感じました。
自分の考えた内容を発表し、周りから評価される。この上なく嬉しいことです。
あ、なんかやっと息が吸えたような気がする。そんな気持ちになりました。

しかし、少し複雑な心境です。
なにが複雑かと言うと、やっぱり意匠に心残りがある訳です。
なんだか歪んだ感情かと思われるかもしれませんが、、、
これならいっそ設備でも“いまいちなやつ”になってくれよと思ったりもします。
つまり、「ダメならとことんダメであれよ、自分」という気持ちです。
(この感情を言語化するのはすごく難しい.....伝わってるのかな.....?)


要するに、どこ行ってもポンコツならば気が楽な訳です。自暴自棄的な?
変な話0点以下は取らない訳ですから。
だけど、あちらではポンコツ、こちらでは使い物になる。
これでは、どちらに行っても悔いが残る訳です。
「意匠」に行って「設備」を振り返れば、
「あぁ、あっちに行けば俺は輝けるのになぁ」と、
「設備」に行って「意匠」を振り返れば、
「あぁ、あっちが俺が本当にやりたいことなんだよなぁ」と。
「どちらを選択するか」という問いは、「自分にとって幸せとは」を考えるのと同じであり、めちゃムズイ。

「まだ実務経験もない、いち学生ごときがちょっと建築かじったぐらいでわかった風な口聞くな!」
というお叱りの声が聞こえてきそうですが、、、
確かに、「そんな少しやってみたぐらいで、自分の向き不向きを断言するのはもったいない」という意見もわかります。そんなことは私だってわかっています。
でも大学生はこの短期間で自分を見極めないといけないのです。
設備の授業では褒められた! 意匠の授業ではうんともすんともいかなかった!
といった、自分の向き不向きを見極めるための、わずかな判断材料でも見逃すわけにはいかないのです。
それを一喜一憂するな!と頭ごなしに言われても、決断までにタイムリミットがある大学生の私としては困ります。


冒頭の陰キャ・陽キャの話はなんだったのでしょうか。
あー、嫉妬の話だ。意匠設計で鳴かず飛ばずだった私は、意匠設計で優秀な彼らに嫉妬しているのでしょう。
そして時にはその嫉妬心からインキャがヨウキャにとる態度と同じように、あろうことか心の中で「なんだあいつら」と小馬鹿にすることもあったのでしょう。
でもそんなざらついた心境の最中にも、意匠設計にリスペクトの念があったことは確かです。


「またいつか...もし良ければ...俺も仲間に入れてほしいな...そんな日はやって来るのかな...」


こうして私は意匠を、インキャはヨウキャを、遠くから見つめてぼそっとつぶやくのであります。

1行で書けるこの気持ちをダラダラと長々と書いている私は、やっぱり陰キャなんだろうな。別にかまわんけどネ。

輝く者も、燻る者も、どちらも誇らしく美しい。
あぁ、、、建築ってなんて魅力的なんだろう。。。




ひとまず実験的に、「劣等感」をテーマに2回に渡って文章を書いてみましたが、
私の書く内容が皆さまにとって有益となったかどうかはわかりません。
私の文章に「私も駅伝やってたから気持ちわかる!」とミクロ的に共感してもらっても嬉しいですし、「人間の持つ劣等感、嫉妬心、執着、後悔など、私も似た感情を経験したことがある!」とマクロ的に共感してもらっても嬉しいです。
noteは依然として使い慣れていないので、何かアドバイスがありましたら、教えていただけると嬉しいです。

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