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話がしたいよ


会話

「あなたの言うことって、不思議と
本当に言っているように聞こえない。」
「それ本当に思っているの?」

と言われることが最近多い。
そう言われると確かに、本当に思っているのか?
というか、なんだかずっと、しっくりきていない。
そもそも会話というものの本質なのかもしれないが、
うわべだなあ、って思う。
言葉はぷかぷか浮かんだり、ぐにゃっと歪んだりして頼りない。
いつからか意識的に、会話というものに多くを期待していない。
だから自分の発する言葉も無責任に響くのだろうか。

そもそも、本来余計なことを不用意に話すべきでないと思っている。
その場にいない誰かの話をしたり、愚痴をこぼしたり。
誰かが私のいないところで私の話をしているのを想像すると恐ろしい
(自分から完全に分離 した自分の存在を感じる)ので、
自分は同じことをしたくない。
大学のコミュニティには、噂話が蔓延しているからうんざりする。
どうでもいい。
その人の話はその人から聞くべきなのだ。
私の話は私以外してはならないのだ。

「変にもったいぶらないで、どんどん自分の話をしたらいいじゃん」
と先輩に言われた。
もしも今誰かに、自分のことを話してみて、と言われたら
私はいったい何を話すだろう。

「年齢は 21 歳、性自認は女性で、大学3年生。学生街に下宿しており、
いくつか駅を跨いだ街のカフェでアルバイト。福島県出身。
家庭内では二 人姉妹の下の子。趣味は...」

自己紹介しながら、なんだかつまらなくなって
さっさと切り上げたくなることってよくある。
称号や社会的立場といった属性も私にとってはなんてことはなく、
「私のこと」を話している実感がない。

私はなにをもって私を語ろうか。
あまりにも本当のことを話してしまいそう。
なんでもかんでも本当のことを話してしまうと、どんどんやりづらくなる。 それは未熟で面倒くさくて扱いづらい私を曝け出すこと、
相手にそんな私の重みを不必要に背負わせてしまう可能性があることを意味している。

対話?

それに本当のことっていうのは、口に出した瞬間に嘘っぽくなると思う。 「本音」も露出すれば、それはもう「表現」でしかない。
「本当のこと」は無闇に口に出さずとも、自然と確信が運ばれてくる。
たとえば詩集をぱらぱらと読む。
ある一節に触れると、堰を切ったように涙がどわっと溢れる。
本音に気づく。

特に哲学対話を始めてから、そういう瞬間が増えた気がする。
それが私の救いになる場合もあれば、
経験として、より深く取り返しのつかない傷をつくったこともある。

対話という場を面白がり、信用し(たいと思い)ながらも
時に「怖い」と感じるのは、
「本当のこと」が冷たく暴力的な一面を見せるからだ。

自室にひとりぼっちでつらつらと束ねているこの文章、
これから読むであろう人々の顔がちらつく。
これも、ここに書いたことで嘘になってしまうかもなあ、とか思う。

会話に期待しなくなった分の皺寄せ、
対話とそれに伴う「本当のこと」への幻想は強くなる。


不誠実

21 歳。自分がますます内省的な人間になっているのを感じる。
他者と深く話をしている間すら、
向き合っている相手が常に自分自身である。
この違和感が自分の中で大きな痼になり続けている。
私は一体誰と話をしているのか。私は人に対して不誠実。

私は他人に興味が持てない人間なんだろうか、と考える。
初対面の人に対して、ぽんぽんとその人のことについて尋ねる人を見て、
畏怖する。 私にはできない。
「質問力」という言葉には耳を塞ぎたい。
そんなところでも競争しようというのか。

何よりも私は自分のことを知りたい。知らなければいけない。
しかし他人を知ろうとしないで、自分たった一人で、
どうやって自分のことを知ればいい?

私は人に興味が持てないだけでなく、人を頼ることもできない。
おそらく人情にも欠ける。
なにも返せるものをもっていない(なにかを返せる自信がない)ので、
人に頼るということを極力したくない。
そして人のために何かしようと思う動機は
「そうしたい、してあげたい」という欲求にはなく、
「そうするべきだ」の義務感、責任感にある。

私はあまりにも未熟で、本来人間関係を始めるに値しないのかもしれない。 そんなことを思いながら、人間関係を望んでいる。
「ひとりごとを言えれば十分だ」という本心からとても近いところに
「だれか返事してくれませんかー?」の本心がある。
結局自分の未熟さを押し付けることになるのに。

「自分」というものを激しく求めている。
しかし、それは他者の間にしか映し出せないような気がしている。
不誠実をはたらいてまで?

独りであること、他者と真に混じり合うことがないということを
おそらく必要以上に自分に言い聞かせ、
内省によって自身を慰めつづけている。


自己実現の欲求はどこからくるのか?

それは私自身が
「他人に自分をどんなふうに扱って欲しいか」
という問いに答えること。

「心の広い人間でありたい」「視野の広い人間でありたい」。
私のなりたい自分は、どれも、気づけば他人の前での自分だ。
人間関係を望む以上、他者によって映し出され続ける自分。
他者によってしか自己という概念は実現されない?

ならば
自己顕示、自己表現、自己紹介、自己責任、自己暗示、自己満足って?

自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己 自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己自己...。

注視すればするほど、自己に対する認知が弱っていく。

ゲシュタルト崩壊(ゲシュタルトほうかい、独: Gestaltzerfall)
知覚における現象のひ とつ。全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、 個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。

自己の全体性とは。


不幸になろうとする心理

相手の相談にとことん共感できなかった経験がある。ショックだった。
その時の私は、自分自身やその可能性というものに強く関心が向いており、 やりたいことや明確な目標でビジョンが満ち溢れていた。
あるひとの言葉を借りると「人生うまくいっている」状態。
漠然とした、根拠のない自信によって私は突き動かされる。脇目も振らず。

自分を嫌悪して仕方がない、と切実な様子で
私に打ち明けてくれた友人を前にして、 狼狽し、
軽々しくも「わかるよ」と声をかけた。
嘘だ。

「ねえ、あまり気にしない方がいいよ。
楽になろう。美味しいものでも食べに行こう。」

彼女にそれを伝えたところで何になるというのだろう。
社会によって用意された一般解を、私が介したことにすぎない。
彼女が本当にそれを欲した時、
彼女が彼女の身を持って実感した時でなければ、
すべての解には意味がないのに。

「数学の答えも、結局は感情なのだ」と、ある数学者は言う。
何度も繰り返し解いていつも 同じ答えになるとしても、
感情で納得しなければ、それは答えではない。

彼女が私に何かを求めているとして、おそらくそれは、
彼女の欠けた部分にピッタリと嵌る答えではなく、
「共感」だったのだろう。
しかし当時の私はまったく共感できなかった。
私も彼女と同じ部分が欠けていたらよかったのか。

似たようなことで苦しんできたはずなのに。
「大丈夫、私もあなたと同じですよ」
とは言えませんでした。
私が「人生うまくいっている」、という私の都合に
彼女を巻き込んだのでした。
「人生うまくいっている」なんて
都合の悪いものを無視した結果でしかない。


独りであること

自分の中で、これは、ものすごく本当のこと。
私の哲学の、現時点でのこたえ。
いつか読んだ坂口安吾にこんなことが書かれていたなと思い出す。
(失礼ながらタイトル忘れてしまった)

「本当のことというのは本当すぎるからきらいだ。
死んだらただの骨で、死んだらそれまでだという、
こういう当たり前すぎることは無意味であるにすぎないのだ。」

人が死んだらそれまで、と同じくらい「独りである」というものも、
むしろ無意味なほどに「本当」だ。本当すぎて無意味。

友人の相談に対して、
共感とか、きっと少しの安心すら分け与えられなかった。
「うまくいっている」せい?冷たい?不誠実?
これこそが未熟さの押し付けか。

いや、これが私の哲学がもたらした結果だ

所詮人間は独りだもんね。寂しいけど安心する。
彼女には彼女の望んだ答えがあり
そして私を救ってきたのも、私が自分で望んだ答えでしかなかった。

あなたはあなた、わたしはわたし。
このことが私を傷つける「本当」であり、私の痛み止めでもある。


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