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自信をつけるために勉強するわけじゃない。

昔自信満々に語る塾講師達が大好きだった。
脚色された偉人の逸話、これさえ覚えれば点数が取れるメゾット…

自信を持って語っている人を絶対信じたくなってしまう。この人についていけば間違いないと。

振り返れば、「わかりやすいおもしろさ」しかわかっていなかったのだと思う。

私が大学で歴史の勉強したいです!大学でどんな歴史の勉強していましたか?と目を輝かせて、憧れの塾講師に質問しても、いつも歴史を楽しそうに教えているのに、もう聞かんでくれと言わんばかりに全然話が弾まなかったのを思い出す。

大学に進学してわかったのは、塾の先生が教えていた歴史は、教科書内の記述をいかに効率よく覚えるかのテクニックだった。
学問じゃなかった。だからあんなに堂々と自信を持って語るんだと。

学問をやればやるほど、自分が理解していたことの浅はかさに気づく。

どこまでも自信持って教えるなんてことできない、勉強してもわからないことが増える一方だ。

学問に触れるほど自分の知識に絶対的な自信なんて持てない。
だから謙虚じゃない姿勢での語り口を見ると疑わしくなる。あまり俺のいうことが絶対正しいって姿勢の人たちは信用ならない。

正直「絶対」は虚勢にすぎない。

私がそうなのだ。

論文発表とかで揺さぶりをかけられると、私が調べた範囲では「絶対」こう書いてましたと、謙虚ではなく語気強めに返して、相手に有無を言わせないような圧をかけてしまう時がある。
自分の調べ不足にも関わらず言い訳ばかりをたくさん並べた返しをして、もう私には聞かないで下さいと言わんばかりな態度でやりすごそうとする。

もう責められないように。
本当に情けない。

「絶対」という言葉に返しをつける人は、よほどの知識を持った方、その上体力がある方でないと言い返さない。

教室内なんて、無垢で初耳の生徒達ばかり。絶対という言葉を使って自信を持って語るほど、生徒が信者のようについてくるのが気持ちよくなる。
お山の大将の出来上がりというわけだ。

教育者になりたくないのは、自分が生徒に浅はかさを晒して、その後ろに生徒に引き連れたくないという高すぎる理想をもっているのもあると思う。

浅はかながらも学問をやっている私でもそう思うのに、そんな教育現場に、「真実の歴史」が書かれた教科書、だとか、今の教科書は「絶対」間違っていると自信を持って語る人々が介入しようとしてくるのに、ゾッとする。

歴史は現代人ができるだけ同時代の解釈に合わせようとする努力の上で成り立っている。どれだけ上の層でも所詮できるだけしかできない、絶対なんてない。

自己の理想とする解釈や思想を、「絶対」をかざして、子どもに押し付けようとするな。

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