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出張あさこ食堂

今週はじめての、出張あさこ食堂を開催しました。

妄想あさこ食堂で毎月、妄想世界でのおもてなしをしてきたけれど、
そして遊びにきてくれた友人にごはんを振る舞うことは度々してきれたけれど。

リアルなあさこ食堂、ずっとやりたいと思ってきたのに、最後の決め手となる自信が持てぬままチキンなわたしはずっと腰が引けたままだった。
そこに、わたし自身が産後のベビーマッサージ教室でお世話になったみっちさんが声をかけてくれた。赤ちゃん連れのママさんたち、コロナ禍で外でのランチすらままならない。ごはんを食べながらほっこりする時間を作りたいな、と。

あぁ、なんて素晴らしい思いつき。わたし自身、赤ちゃんを連れて生活していたときの楽しみといったら、友だちとのランチではなかったか。授乳しながら、はたまた泣くのを必死であやしながら束の間友人と他愛のない話をして美味しいものを食べる、あの時間が一番の癒しだったのをよく覚えてる。

ねえ、そんな時間に携れるってそれほど幸せなごはん作りはないよね。何なら声をかけてくれたみっちさんが引くぐらいの勢いで「やりたい!!」と即返信した。そうそう、そういうことがしたいのよ、わたし。と、全身の血が躍るような感覚。(もはやそれは、お節介なおばちゃんの血が騒ぐというやつですね)

どうせなら、ちょうど収穫の時期。実家の新米を食べてもらう会にしよう。
昨年から細々と始めた、地方の農家と街中の食べ手を繋ぐこと。そこにもリンクできたらなおうれしい。食べてもらえば分かる、うちのお米の美味しさ。そんな気持ちもあった。

当日、みっちさんが作る場はやっぱり温かかった。
15年前(自分で書いてても驚く時間経過の長さよ…)、長男の産後に友だちどころか知り合いすらほぼいない、この京都の街中で思いもよらずアレルギー体質の赤子を抱っこして日々びくびく生活していた頃に出会った場所。

どんな話もスポンジみたいに聞いてくれて、ふわふわで温かな言葉が返ってくる安心感。そんなみっちさんに集まるお母さんたちは、みんな真っ直ぐで愛に溢れていて、繊細さとしっかりとした芯を持ち合わせてる。今も当時も、ここに集う女性にはそんな素敵な共通点があるなと思う。

コロナ禍を漢字一文字で表すと?をテーマに一人ずつ話してくれるエピソードがまた素晴らしくて、キッチンでごそごそと作業しながら耳だけダンボ、首がもげそうなぐらい頷いてた。そうか、そう感じてるのはわたしだけじゃなかったんだ、と思えた。敢えてテーマにしないと出ない本音や想いもあるんだよね、人にはそれぞれ。

そうして迎えたお昼ごはんの時間。きっと普段は家族ファーストで自分のごはんはキッチンで赤ちゃんおんぶしながら、とかも当たり前。そんな時期のお母さんたちは、「ひとに作ってもらったごはん」というだけでも猛烈に感動してくれた。

メインは新米、つぎのメインはお塩。
出来るだけ体に違和感のあるものを入れたくない、がわたし自身や家族のために作るごはんへの信条。そこは同じ気持ちで、かつ授乳中に卵や牛乳を避けているお母さんたちがいることも考慮したメニューに。
長男が赤ちゃんのころ、卵牛乳小麦粉のアレルギーが判明して全除去した時期があるけど、そのときの経験や気持ちがすごく役立ったなと思う。除去してるからって周りに配慮されすぎたり別メニューにしてほしいわけじゃない。みんなと同じものを楽しむ悦びって、やっぱりあると思うから。
本当に、自分に起こることってすべて意味があるんだなと感じる。後々どう役立ってくるか分からないものです。


そしてここからは、ちょっと裏話的なこと。週末に試作がてら晩ごはんに同じメニューを作って家族の反応を見たり、前日から仕込みを始めたり、と我ながら肩の力入りっぱなしだったのがよく分かってた。
ついついやり過ぎる自分の性格が分かるからこそもっと気軽に楽しんでやればいいのに、と思う自分と、どこの馬の骨かもよく分からないまま来て下さる皆さんに喜んでもらいたいんだもの気合入るわよ、と思う自分とのせめぎ合い。
そうして迎えた当日の朝、朝ごはんとお弁当、仕込み分でカオスを極めていたキッチンを見てビビった次男が、なんかえらいことになってんな、と呟いたところに長男がひと言、カッコつけたくて頑張ったはんねん、と返してた。それを聞いて、わたしの様子も思惑もすべて家族はお見通しなんだ、と気づいたら肩の力もいい具合に抜けたし、この家族がいて出来てることなんだなと改めて痛感した。

そして、あさこ食堂終了してほっとしながら晩ごはんの準備をしていたとき。ダイニングテーブルで宿題をしていた娘が「おとなって、漢字で書くとき『大きな人』で合ってるよね?」と聞いてきたので、そうよーと応えながらふと、大人ってただ大きな人、なんやな。要は(サイズが)大きいってだけでエラそうにしてるんやなー、とわたしが呟いたら娘がひと言、「夢もその分大きいねん」と返してきたことに震えた。

そうか、体のぶんだけ、夢も大きいんだ。
子どものほうがずっと大きな夢を持ってそうだけど、そう思い込んでるのは大人のほうで、大人の夢も実は大きいんだ。大きくていいのね。そうだよね、そうよね、今日得た悦びも相まって、娘のひと言が猛烈にわたしの気持ちに刺さってきた。

そんな前後の家族との絡みも含め、なんとも気付きだらけ得るものだらけの時間だった、はじめての出張あさこ食堂。

ずっとやりたかったことって、やっぱり意味があるんだよね、といま痛感しています。
あさこ食堂、またやろう。そこにはきっと、ただごはんを食べてもらうだけではない、素晴らしい出会いや気付き、悦びがあると分かったから。




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