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とうとう身内からも毒ワクチンによる死者が出てしまったという話|過去を振り返らず前だけを向く

とうとう、身内からワクチン毒による死者が出てしまった。

被害者はUYの親戚で、まだ40代。既往歴や基礎疾患のない、働き盛りの元気な方だった。

夜勤先に出勤してこないので、同僚が催促の電話をしたが、応答がない。自宅を訪ねてインターフォンを押しても出てこない。不審に思い、警察へ110番をし、大家さん立ち会いのもとで入室したところ、死亡していたとのこと。自殺と事件の可能性も含め、検視・解剖を行ったが、結果は「脳出血」。あっけない最後だったという。

僕は直接の面識はないが、UY本人は、幼い頃からお世話になった従兄弟である。彼女のショックは、当然大きい。

彼女は急遽、葬儀のために地元へ戻ったので、僕は、不満げな表情の犬たちをなだめながら、たまった仕事をこなしながらの留守番である。

大切なものは失ってはじめて気づく

急な留守番に一番不満げな陸

正月には、顔を合わせて会話をした親戚が、まさかの突然死である。UYを含め、彼女の兄弟や家族、親戚一同のショックは大きい。それと同時に、義兄や義姉の口から出てくるのは、当然、

「ワクチンが原因だろうね……」

という、ため息にも似た声である。

義兄と義姉は、UYの啓蒙によって、今回の騒動の本質には、完全に覚醒しているので、周りの同調圧力に徹底的に抗っており、毒ワクチンは接種していない。しかし、普段は滅多に連絡も取らない親戚となると、そこまでの説得を届けるわけにもいかず、今回の結果となった。

もちろん、今回の件だって、医療や行政側からは、「因果関係不明」という、魔法の言葉によって処理されるだろう。遺族は、それらを科学的に証明する術を持っていない。そういう脆弱さを利用した人口削減が、いまの騒ぎなのだ。悔しいし、無念しか残らないが、今は、こういった事実を積み上げていくしかない。

故郷へ戻る前。UYは、寂しげにこうこぼした。

まさか本当に、こんなに簡単に身内からも死人が出るなんて、思ってもいなかった。ついこの前会って会話をしていた従兄弟が、もうこの世にはいない。信じられないけれど、事実なんだよね……。いつもあなたが言っているけれど、人って、相手が本当に死んだりしないと、その大切さとか、悲しみとかを、本当には理解できないものなんだね。もっと、毎日を一生懸命に生きなきゃいけないなって、やっと理解できた。

僕は常々、

  • いつ死んでも後悔がないよう、毎日を丁寧に生きること

  • 本当のありがたみは、失わなければわからない

  • 小さなことこそ、大切にする

といった、説教じみたことを口にしている。けれども、彼女の反応が薄いときもあり、「ああ、これは言っても理解されない、いつものパターンだな」と察することも多かった。

「言い聞かせてわからない人には、見せるしかない」と、Qがdropしていたように、多くの人は、言葉や情報、知識だけでは、事実や真実の、本当の姿を理解できない。それは、UYも例外ではなかったということだ。

僕は、彼女よりも数年長く生きているし、模範的で優等生的な人生とは真逆の生き方をしてきた。人にたくさん騙されたり、失わなくてよかったものをたくさん失ったりと、とにかく、一般社会の求める「普通」や「平均」「典型」とはかけはなれた人生を来たように思う。他人に誇れるようなものはなにひとつないけれど、代わりに、異常な経験や過剰な実体験だけは腐るほどあるので、彼女の悲しみや苦しみ、葛藤は、手に取るようにわかるし、今回、こうして、身内の死を突きつけられるまで、本当の悲しみを理解できなかったUYの立場というものも、理解できる。

頭の良い受験秀才は実像が理解できない

風太はお父さんがいれば満足です

いまの日本社会では、知識や情報、言葉を記号的に暗記して、試験やテストで良い点を取った人、良い大学に進学して、良い企業に就職した人だけが、頭が良い・優秀な人と評価される。しかし、僕は、支配層によって考え出された暗記教育から生み出されたこの手の人たちを受験秀才と呼び、軽蔑している。(UYなんかも、どちらかというと、こちらに分類される。)

自分に学歴がないから他人を卑下したり、嫉妬しているわけではない。

お勉強のできる頭の良い人であればあるほど、実社会では使い物にならない。これは、社会に出て真っ当に仕事をしている人なら理解できる点、思い当たる点があると思うし、ご経験がおありだろう。また、こういった類の話は、認識論や弁証法に触れたことがある人には、常識である。
(こういうことを書くと、かならずといっていいほど「お前はマルクス主義者か?!」とか、「お前も共産主義者か?!」とか言ってくる人がいるけれど、そうではない。より理想的な思考を構築するにあたって、たとえDSが産み出したものであっても、安全に・平和的に使えるものがあるなら使えばいいというだけの話です。)

体験を多くさせず、情報ばかりを頭に詰め込むだけの暗記教育は、フレッシュではつらつとした脳細胞を持った、あらゆる可能性の塊であるはずの子どもたちの認識を潰し、馬鹿で従順、無思考で無感情な大人に堕落させる。それを、支配者層は知ったうえで、僕らに押し付けた。

いまの日本社会を見渡せば、彼らの敷いた暗記教育のレールにのっかってしまった国民全体が、見事に劣化してしまったことは明らかだろう。

受験秀才の脳細胞は、事実を自ら確認せずとも(実像を思考内に精細に描き出さずとも)、情報を得た段階で、即座にそれらを真に「わかった気」になってしまえるのだ。
(事物事象を立体的・多面的に観測する柔軟性が乏しく、あらゆる物事を平面的・一面的に捉えて、思考を硬直させてしまう認識状態の脳細胞のことを、受験秀才と呼んでいる。これは、人間にとって、もっとも恐れるべき状態であるが、世間一般ではそうは扱われていない。)

マスクや消毒、ワクチンには、捏造ウィルスに対する効果や安全性の科学的根拠(再現性)が一切ないのに、テレビやメディア、政府などの権威のたれ流す情報を、精査することなく鵜呑みにして(実像を把握していないのに、わかった気になってしまい)、従ってしまう人が大勢いる。これが、暗記教育、受験秀才の最大の弊害である、と僕は思っている。
(こういった洗脳教育が推し進められたのは、ムーンショットといった電脳世界や、メタバース的仮想空間を心地よく感じさせるための布石だったのかもしれない。)

確かに、受験秀才は、資本主義や権威主義、競争社会においては、一定の成果をあげることができるだろう。しかし、その成果と呼ばれるものの多くは、利己的なものであって、利他的ではない。

自分の脳細胞のなかに、精細でフレッシュな実像を描く実力が身についていないということは、すなわち、自分以外の他人の、生々しい気持ちや熱意、自分とは違った色を持つ多様な思考さえ理解できない、無味乾燥の、硬く冷えた、豊かさのない貧しい認識の人間になってしまうのだ。

自分の収益のためだったら、危険な毒でも平気で他人に撃ち込むことのできる人間の多くが、熾烈な受験戦争を勝ち抜いた優秀な受験秀才である「おいしゃさま」であるというのは、偶然だろうか。

日本人の奴隷思考

話は少し変わるが、最近、

「会社でPCR検査を受けなければいけない可能性が出てきました。どうすればいいでしょうか。万が一陽性と判断されたら、何日も隔離される可能性もあるので、できれば受けたくないんです」

という相談を受けた。

「そんな詐欺検査は受ける義務がないのだから断ればいい」

と端的に伝えた。すると、

「でも……、やっぱり会社勤めをしていると、会社の命令に従って、社会の空気や風潮に溶け込んで、なるべく目立たないようにしないといけないとも思うんですよね……」

と、わけのわからない返答がかえってきた。

ならば、僕なんかの変態に、そんなくだらない相談をしてこなければいいのに、と思ったのだけれど、要するに、日本人の多くは、ここまで状況が差し迫っても尚、この程度の思考しか持っていないのだろうなと、勉強になる。

みんな、周りの目を気にしている。

他人に嫌われたくないとか、よく思われたいとか、

そういった、瑣末で、幼稚で、なんの価値もない、動物以下の醜い反応によって動かされているのが、いまの日本人だ。

効果があるとかないとか、科学的根拠がどうとか、彼らに必要なことは、そういうことじゃないらしい。

自分がどうしたいとか、自分はどう思うのかとか、そういう主体性も、彼ら・彼女らの思考にはない。

欲しているのは、目先の安易な利益と、インスタントな安息、つまり、すべては幻想である。

挙げ句の果てには、

「マスクの着用やワクチン接種は、もう社会通念ですし……」

なんていう、狂ったことまで言い出す始末だ。
(こういう人には、もはや、法律とか憲法とか、実体や定義が明確なものの話をしても無駄で、理解されない。「私は、そういった難しい話はわからないので……」と、思考停止で一蹴されてしまう。好きなだけマスクをすればいいし、死ぬまでワクチンを打ちつづければいい。どうぞ、ご勝手に。)

実体のないウィルスに怯え、

実体のない情報を、定義のない言葉で解釈し、

効果のないマスクで酸欠になり、

危険な毒薬を注入されて死亡する。

最後は、従わなくてもいい権力者や支配者、国や政府の強制を、諸手を挙げて受け入れてしまう。

これが、家畜でなければ、なんだというのだろう。

世界中が団結しはじめている中、日本人は、いまだにこの体たらく。

間近に迫っている明確な共産化の危険性にさえ気づかず・防げず・抗えず、それのなにが日本国民だというのだろう。

暗記教育、受験秀才の弊害は、果てしない。

人は、最後は、自分の実像さえも見失い、電子の海へ消えていく定めなのかもしれない。

過去に生きるのは老いた証拠|前だけを向いて生きる

お母さん子の星那も、留守中だけは僕にべったり

とはいえ、3回目のワクチン接種率は、開始からの約一ヶ月間でが、国が想定していたよりも低いという報道があった。もしもそれが事実なら、情報戦争において、庶民側が優勢なのかもしれない。

今後はどうなるかわからないし、そもそも、2回を終えた時点で、ほぼ、生存は絶望的なのではないかとも思っているので、あまり楽観的な思考は持っていない。(事実、個人的な知人や知り合いだけでも、毒によって倒れてしまった人の数は、両手で数えられないくらいだ。倒れた人たちの訃報も、徐々に、僕の元に届きつつある。UYの従兄弟も、本当に死んでしまった。)

確かに、身近な人が死んでしまうということは、とても悲しいことだ。そんな感情を持つことは、人として当然である。死んだ人は、もう二度と戻ることはない。

ただ、考えようによっては、死んでしまってもう二度と会えないことも、世界の果てに移住してしまって、生きてはいるけれど、もう一生会うことができないのも、同じようなものではないか。そう考えると、少しは気が楽になることもある。

さて。

こんなタイミングで、菊谷さんの映像を見つけ、拝見した。

  • 過去に生きるのが、老いた人。

  • 若い人は、未来を見ることができる。

  • そこに、年齢は関係ない。

そんなお話だ。とても参考になった。

UYとの生活をはじめて、今日でちょうど丸10年になる。(十年めのこの日に、親戚の葬儀があるなんて皮肉なものだけれど、そういう周年にこだわりはないので、仕方のないことだと諦めている。)

もうそんなに長い月日が経つのだなと、感慨深いものがある。

ここに来るまで、もちろん紆余曲折、いろいろあった。けれども、どんなに大変なことでも、10年を懸命に過ごせば、必ず良い方向へ変化するものだ。

UYとは、ここまで、本当にいろいろなコミュニケーションを取ってきた。

僕らが今も、毒ワクチンを回避して、健全に・健康に生活を継続できているのは、本当にありがたいことであるし、感謝すべき幸福である。

今、僕らがこの選択をしてここにあるのは、ただ単に、ワクチン接種をしなかったというだけではない。

ここに至るまでの、お互いのあらゆる経験、行動、思考、発言、食生活、日常習慣など、無数の選択の集積の結果、今の生活がある。冒頭でも書いたが、僕が毎日のように、

  • 小さなことこそ、大切にする

と口にするのは、それが理由である。

DSのマザーテレサを引き合いにだすわけではないが、しかし、人間の幸・不幸を明確にわけるのが、日常的な、ささいな、小さな選択の一つひとつであるのは事実である。

小さなことをバカにし、ないがしろにし、大切にできない人は、いつか必ず、大きなものを失う。

僕個人も、42年の人生の中で、そういう大きな失敗をたくさんしてきた。だからこそ、身近な近しい人には、そういった失敗をなるべくして欲しくないので、ささやかな助言として、伝えるようにしている。

そんなUYにも、未だにひとつだけ伝えていないことがある。それは、僕が音楽活動をしていた頃の話だ。

いまでも、ときどき、

「どんなバンドでどんな音楽をしていたの?」

と聞かれることがある。

でも、僕は、あえて詳細を答えることはしない。

なぜなら、僕は、音楽業界から完全に足を洗ったときに、過去に生きるのをやめたからだ。

僕は、バンド活動をやめてからも、十年ほどは、中途半端な形で業界に片足を突っ込んでいた。でも、UYと出会ったことをきっかけに、完全にそこから離れる決意をした、という経緯がある。

現役だった十代の頃には、芸能界全体がDS一色に染まっているのは気づいていた。実際に、自分がそこに身を置いて、いろいろなことを目の当たりにしたことで、その場がどれだけ暴力的で、傲慢で、狂った危険な世界かを察知したからこそ、バンド活動をやめた。でも、いろいろな腐れ縁なんかがあって、完全には足を洗うことはできなかった。腐った世界にも、もちろん優秀な先輩というのは少数いるもので、そういう人たちに守られていたからこそ、そこが心地よくて、ぬるま湯に浸かっていたのかもしれない。

でも、そんなぬるま湯から抜け出そうと思えるようになったのは、UYと出会ったから。いまさら、過去のことほじくりだして、必要のないことを、無関係なUYに背負わせる必要もない。だから、なにも言わないことにしている。

別に、僕自身がなにかの悪事や犯罪に手を染めていたという、おおげさな話ではない。けれども、ここまできて、この状況下において、やはり自分が少しでもDSの息のかかった業界にいたことは、個人的な汚点ではあると思っているし、自戒している。自責の念があるのも間違いない。

(僕のいたバンドのメンバーの一人なんかは、完全にあちらに取り込まれてしまい、DSのなんちゃら夫人の詐欺の片棒を、いまだに担がされている。諸先輩の中には、トカゲの婆さんと懇意になってしまった人もいれば、貧相な詐欺宝石商に落ちぶれた人もいる。覚せい剤の中毒に未だ悩んでいたり、なかにはオーバードーズで死亡した人さえも。六ヶ所村問題に傾倒して政治発言を始めてしまう勘違いの人もいれば、社会の裏側を知りすぎて、とっくの昔に、自殺に見せかけられて暗殺されてしまった人だっている。とにかく、あちらの世界は、僕ら庶民には理解ができないくらいに無茶苦茶なのだ。
その無茶苦茶を、自ら目で見て、体験してきたからこそ、世の中の支配も理解できるようになったという意味では、僕は、あの業界によって、実像を捉える実力を鍛えてもらうことができたと言えるかもしれない。これは、ある意味では、ありがたい話だ。どんなことも、頭でシノゴノ考えているよりも、危険を顧みずに飛び込んで経験して、たくさんの失敗を得てしまったほうが、成長にとっては効率がいいし、なによりも、多くの実力が身につく。こういう意味でも、受験秀才が使い物にならないと、僕は思っている。)

あの頃がよかったなんて、少しも思わない。今が一番幸せであるし、これから、もっと幸せになる。そう思って生活している。僕はまだ心が若いだろうか。

過去の栄光? にしがみつくことは、みっともなくて、惨めで、哀れなことだ。

それよりも、今、僕らが見なければいけないこと、考えなければいけないことは、今のこと、現在のこと、この先のこと、未来のことだろう。

菊谷さんが映像のなかでおっしゃっているとおり、人は、未来のことを考えられなくなったら、老いて終わりなのである。

これまで、なんども書いてきた。

人間というのは、未来を考えられるからこその人間なのであって、それができなくなったら、もはや人間ではない。動物以下である。

それは、未来を想定する・推測できる、という意味でもあるし、

過去を捨てる、昔のことに執着しない、先を見て前向きに生きることができるといった、成熟した思考でもあるだろう。

研ぎ澄まされた思考を得るには、とにかく無駄を排除することだ。新しいものを加える思考ではなく、古いものから消去する方向で、頭をクリアにする。

今は、戦争中。くだらない過去に想いを馳せている場合じゃない。

そんなことよりも、今をどう大切に生きて、未来をどう良くしていくか?

それに尽きるのではないですか?

ねえUYさん。

10年間、ありがとう。

これからもお願いします。

亡くなった「かっちゃん」の分も、まだまだ、元気で、健康に生きるのが、僕らの定めです。