あなたとわたしが共有しているものは何だろう、ということ

「○○さんってどんな人?」
「うーん、やさしい人…?」
「そっかー」
「……。」

ってなるの、そろそろ辞めたい。

***
あるAさんは、Bさんのことを「その人の心臓が動いているという事実に感謝したくなる人」だと表現し、A'さんは「2時間過ごすだけで胃もたれするけど年に1回くらいは会いたくなる人」だと言い、A''さんは「天気がいい日に一緒にサラダを食べたい人」だと言った。

他人について語るとき、その人が“どうやさしいのか”“どうおもしろいのか”を説明するよりも、“その人と自分は何を共有してきたのか”を伝えようとするほうが、やわらかく生々しくて且つ的確だなあとおもう。

誰かと出会った瞬間、その人と何かしらを共有する。共有の形は出会いの数だけある。共有するものはそれぞれ違う。

見た景色、過ごした場所、共通の知人、というハード面なのか。

それとも、そこに付随して生まれる心の揺れ、のようなソフト面なのか。

ソフト面だとしたら、分け合っているのは心のどの階層なのか。表面なのか、真ん中あたりなのか、もっとずっと深いところなのか。

どんなに長い時間を一緒に過ごしても、「3年B組の同級生」「前職の同僚」「セフレ」みたいに、肩書きしか共有できない人もいる。かたや肩書き関係なく、短い時間の中で心のど真ん中を共有できる人もいる。

「会ったことはないけど心の一階層を共有できる」という関係もあるし、「普段はハード面しか共有できないけど、1日だけ心の一番深い部分を共有したことがある」という関係もある。(こういう関係性こそ人間関係の醍醐味である、とも思う)

関係性は白や黒でパキっと定義できるものではなく、限りないグラデーションの中に曖昧に点在している。だから肩書きに押し込めようとしないで、自分はこの人と何を共有してきたのか?をすくいあげながら、それぞれの形をつくってみたい。

「友達」「家族」「恋人」「上司」「同僚」「知人」…

そういう共通言語を使わずに、ある人との関係性を、世界にひとつだけの方法で表現してみる。それはもはやことばじゃなくてもいいのかもしれない。

きっと私はこれからも冒頭の問答を繰り返してしまう。だけど自分の中で、グラデーションのどの部分に誰がいるのかがわかっていれば、それでいいかなとも思う。人に伝えなくてもいい。「誰にも説明できない」という事実も、きっと共有してきたものの大きさを物語るための一要素なのだ。

(2016.10.25)

あしたもいい日になりますように!