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15/07/2020

どこかの誰かのある一日。インタビューを元に、私ではないひとの日記を書いています。

ドラマチックな出来事から一日が始まった。

いつもは7時半まで寝ている5歳の息子が、6時半にしゅっと起きた。そして、まだうつらうつらしている私に「パンツどこ? パンツ濡れちゃってさあ」と声をかけてくる。ん? 濡れた? 「おしっこじゃないよ。たぶん、ちんちんにいっぱい汗かいたんだと思うんだよね」と息子。いや違うよね、おねしょだよね? 布団を見ると、明らかに湿っているところがある。人生で初めて、息子のおねしょというイベントを経験した。

彼は、“自分の意思に反して用を足すことがある”という事実に相当びっくりしている。
「でも、僕寝てたよ!」
『人はね、寝ててもおしっこが出ちゃうときもあるんだよ』
「ええ、そうなの? 僕これから先どうしたらいいの?」
『起きてるときはコントロールできるけど、寝てるときは勝手におしっこが出ることもあるから、寝る前にちゃんとトイレ行っておこうね』

彼はうなづく。あのうなづきの深さを、私は一生忘れないだろう。

まだこんなふうに、初めてのことに出会えるんだなあとうれしくなった。7月15日はおねしょ記念日だ。

息子を幼稚園に送ったあと、バスに乗ってベトナム語学校へ。
夫の赴任について、ハノイに越してきて5ヶ月。最初はこわくて乗れなかったバスにも、普通に乗れるようになった。

バスに揺られながら、私は泣いた。なんで泣いたんだっけ。ああ、そうだ。「もういない私」のことを思ったからだ。

言葉も地理も何もわからないままベトナムに来た。最初は、Googleマップを片手に場所をチェックしながら乗っていたバス。今は車窓からの景色で、だいたいどの辺にいるのかわかる。車内のアナウンスを聞いて、頭の中に声調記号が浮かぶ。この音はこう書くのかな、となんとなく想像できる。今日もこのあと学校で、新しいことばをいくつか覚える。

右も左もわからないまま過ごしていた自分はもういない。私は戻れない毎日を過ごしてるんだな。
そう思ったら、泣けてきたのだ。

初めてバスに乗った日のことも思い出した。
それは夫の誕生日だった。
いつもはバス停まで行っても、こわくて何本も見送って結局タクシーに乗るということを繰り返していた。でもその日は「絶対バスに乗るぞ」と決めてバス停に向かった。行き先も決めずに次来たバスに乗ろう。そして、勇気を出して乗ってみた。なんだ、こんな簡単なことだったんだ。なんでもっと早く乗らなかったんだろう? とすら思った。帰って夫に話したら、「すごいじゃん、俺も乗ったことないよ」とすごく褒めてくれた。

海外で現地の人と同じ暮らしができる人は、かっこいい。自分がそう思っていたことに最近気づいた。いつも心のどこかで、それができない自分を恥じていた。市場じゃなくてスーパーに買いものに行くこと。街の食堂じゃなく、ファストフードとかチェーンのフォー屋さんとか、小綺麗なお店でごはんを食べること。バスじゃなくてタクシーに乗ること。そういうのを全部、恥ずかしいと思っていた。

でも、バスに乗るのもタクシーに乗るのも、食堂でごはんを食べるのもファストフード店に行くのも、ただそこにある場所で時間を過ごすという、それだけのことだ。なんでそれを勝手に「かっこいい」とか「恥ずかしい」とか定義していたんだろう。私って、なんて野暮な人間だったんだろう。

ただそこにあるもの、ただそこにいること。そこにドラマや意味を見つけるのが生きる喜びだと以前の私は思ってた。でも今では、どうして意味とか理由を見つけたがるんだろう? と思うようになった。自分がぐるんとひっくりかえって、裏返しになったような気持ちだ。

そうやって、“かつての私”がまたひとつ消える。
それを思い知って、バスに揺られながら、私は泣いた。

ベトナム語の授業を受けたあと、先週も行った食堂に寄ってから、1時間くらい散歩をした。発音の練習のために、目に入る看板の文字をぶつぶつ声に出して読んだ。

家に帰ってから、ギターの練習。この前観た「ブラインドマッサージ」という映画が本当によくて、そのエンディング曲を弾き語りたいがためにギターを買った。一日10時間くらい弾く日もあって、まだ買ってから1週間も経っていないのに指先がかちかちだ。今日はフジファブリックの「茜色の夕日」を練習した。

日本にいたときより、好きなことを好きなようにやって暮らしてる。でも、光が強いほど影も濃くなるものだ。毎日楽しいなと思う日もあれば、これから私はどうしよう? 今後の暮らしは、仕事は? と悩んでネガ期に入ることもある。日本でしていた写真家の仕事も、食い扶持としてまたがんばっていくイメージがわかない。自分の気持ちを残す記録としては続けていくけど、仕事として続けることの想像がつかない。

ギターを始めたのは、そうやって悩んだときに打ち込めることが欲しかった、というのもある。ときどき日本語を追うのがつらかったり、日本の歌を聴くのがしんどかったりする日もあるから、違う角度で打ち込めることをしたかった。弾いて歌うのは、楽しい。そうやって新しく始めたことが、新しい自分を運んできてくれてる。世界はうまいことできている。

夕飯は、冷凍餃子、卵焼き、きのう買ったバインセオ(ベトナム風お好み焼き)、サラダ、もやしを卵でとじて焼いたやつ。それから、きのう作ったフォーのスープに青菜を入れたやつ。冷凍とか残りものメインでまったく無理してないのに、図らずも絵面がなかなか豪華で華やかな食卓になった。

その日がどんな日だったかは、食卓に表れる気がしている。
今日はいい日だったなと、家族で囲む料理を見て思った。

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あしたもいい日になりますように!