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母と息子と私とあなた (母になることについて)

「母親になるって、どう?」

聞かれると、ちょっと答えに窮する。

何か変わったことはあるんだろうか。母性が芽生えたのかと言われると、それもよくわからない。正直なところ、私はたぶん、何も変わっていない。


夏の盛りにやってきた息子(ひーさん、と呼ぶことにします)。4ヶ月経ち、スマホの写真フォルダには、数え切れないほどのひーさんの写真が並ぶ。相変わらず夜は数時間おきに目を覚ますから、私も眠気と闘いながら、真夜中に抱っこでゆらゆらする日々。

旅行をしても写真はほとんど撮らない。8時間睡眠がデフォルト。そんな私にとって、これは特別な事態で、大きな変化だ。


だけど、自分のことを、“母になった”とは思っていない。ひーさんが生まれてまだ数ヶ月ということもあるけれど、理由はそれだけじゃない。


「母と子」というラベリングが施された関係性は、ちょっと唯一無二感が強すぎるのだ。「うちの子」「息子」という言い方は、便宜上するけれど、本当はこのことばは使いたくない。

私とひーさんの関係性は、「母と子」じゃなく、「私とあなた」の一形態にすぎないと思っている。扶養義務という社会的強制力のもと、たまたま同じ屋根の下で暮らすことになった、シェアメイト・クラスメイト。そんな言い方がしっくりくる。


私は、ひーさんが地球に生まれつくための、ただのトンネルになったにすぎない。この世界と別の世界(どこだろう?)をつなぐ、通り道としての役割は果たしたかもしれないけれど、それ以上でも以下でもない。

「うちの子」が特別かと聞かれると、そうとも言えるしそうでもないとも言える。人間という種をつなぐものとしての役割はどの子も等しく、“どのトンネルを通ってきたか”の違いでしかないからだ。


私の人生に、この小さなか弱い生き物を守るというオプションは追加されたけれど、でもやっぱりそれは“オプション”であって。私は私、あなたはあなた、お互いの道が1本になることはないのだ。

ひーさんは、私にはわからないことばを話し、私の知り得ない世界を見ている。私は私で、相変わらずやりたいことはたくさんあって、日付が変わるまで出歩くことだってあるし、諦めたくないことも山ほどある。


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ときどき、『ダーウィンが来た!』という、野生動物のドキュメンタリー番組を見ている。

サバンナや海や山、過酷な自然環境下で暮らす動物たち。オスとメスが出会ってつがいになって、子どもが生まれる。子どもは親に守られながら、数々の危機を乗り越えてぐんぐん育ち、しかるべきときに親のもとを去っていく。番組のラストでは、子どもの巣立ちが描かれる。


一度巣立った子どもとその親は、きっとその先、会うことはないのだろうな、と思う。親であったことも、子であったことも忘れて、一つの個体として生きて、死んでいくんだろう。

そして私たち人間も、本当はそうあるべきものなんじゃないか、と思うのだ。

社会的な生き物である以上、そうもいかないのが実情だけれど。「あなたはあなたで、元気にやってね」でさよならするくらいが、本来あるべき距離感なのかもしれないなあと、なんとなく思う。


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「今年最大の出来事は出産でしょう?」と言われたら。ひーさんにとっては、そうかもしれない。新しい世界に生まれてきたのだから、大きな転機だ。私にとっても、全く未知の新しい体験ではあったけど、それだけを切り取って特別視することでもないような気がする。


私は、母というラベルは持っているけれど、“母”という別の生き物になったわけじゃない。

だけどせっかく縁あったからには、ひーさんと偶然に重なり合った時間を、一緒に楽しく過ごせたらいいなあと思う。いいチームになれたらいいなあとも、思う。

「育てる」なんて到底言えない。自分の足で立てるようになるまでの、ほんの少しの寄り道のつもりで、過ごしてもらえたらうれしい。


▼あべもえこさんのツイート、すごく共感したので引用します▼

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アイキャッチは、ますぶちみなこさんのイラストを使わせていただきました◎

あしたもいい日になりますように!