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新宿の占い師さんが教えてくれたこと(“私とあなた”で話がしたい)

もうずっと前。人生で一度だけ、手相占いに行ったことがある。

新宿の寒空の下で2時間くらい並び、ようやく通された小部屋には、母くらいの年齢の占い師さんがいた。小さな机を挟んで向かい合い、手のひらを片方ずつ見せていろんなおしゃべりをする。

何を言われたかはほとんど忘れてしまったけれど、よく覚えていることがひとつある。

あなたは体があんまり強くないから、結婚して子どもを産んだら仕事をセーブしたほうがいいかな。

そんなような話である。


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最近、この占い師さんのことばを思い出して、ふと考えたことがある。

①結婚して子どもを産んだ女性は、仕事をセーブすべき。
②あなたは(体があんまり強くないから)結婚して子どもを産んだら仕事をセーブすべきだと私は思う。

たとえば、①のようなことばをかけられたとき。私はきっと「ん?」と思うだろう。

占い師さんのことばは②だ。私はこれを聞いて、「そうなのか。この人なりにそう思う理由があるんだろうな」と素直に思った。

①と②は、同じことを言っているようで全然違う。

「私たちとあなたたち」のコミュニケーションか、「私とあなた」のコミュニケーションであるか、の違いだ。

この違いを見つけたとき、今まで感じていたいろんなもやもやが少し晴れたような気がした。


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世の中が盛り上がれば盛り上がるほど、それに対して何もことばが出なくなる、ということがよくあった。

いわゆる「社会問題」についても、これまでずっと語るのを避けてきた。

思うことはないわけではなかったが、言語化しようとするとどうにもうまくいかない。知識が足りないのももちろんあるけれど、根本的に「私たちとあなたたち」というコミュニケーションの形がしっくりこなかった、ということなのだ。


世間だって社会だって、無数の「私とあなた」で構成されている。それなのに、実態のよくわからない「私たちとあなたたち」をベースに語ってしまったり、「私とあなた」を途中で「私たちとあなたたち」にすり替えられたりすると、なんだかどうにももやもやする。

①若者は最初に勤めた会社で最低3年は働いたほうがいい。
②あなたは今の会社で3年は働いたほうがいいと私は思う。
①女性は家事をするべき。
②あなたはもっと家事をするべきだと私は思う。
①お金持ちは寄付をするべき。
②あなたは持っているお金を寄付に使うべきだと私は思う。

①を言われたら、おそらく「ん??」と思う。でも、②なら。この人は私と向き合った上で、何かしらの理由を持ってそう言っているんだな、と思う。

それに納得できるかできないかはさておき、この「“私とあなた”で向き合ってくれている」という実感を、きっと私は望んでいるのだ。


男性・女性、若者、日本人。

こういうことばで括ると便利なこともたくさんある。

だけど、それを構成するのは一人ひとりの人間だ。社会を形作るのは、ひとつとして同じ関係性はない無数の「私とあなた」だ。

私には名前がある。「個」という概念を持っている。やっぱりどうしたって、「私たち」じゃなく「私」を見てほしいのである。その代わりに、私は「あなたたち」じゃなく「あなた」を見たい。


「私たちとあなたたち」でものごとを語ろうとすると、どうにもギスギスしてしまう。だから「私とあなた」でものごとを語りたい。

この広いインターネットの時代に、原始的なことを言っているのかもしれない。だけどやっぱりそこは、どうしても守りたいのだ。

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ところで私は結局、占い師さんのアドバイスを無視して、結婚して子どもを産んだ今でもがっつり働いている。今のところ大丈夫です。(そもそも体はけっこう丈夫)

あしたもいい日になりますように!