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図らずも好ましくない世論の一部になってしまう瞬間について

ゴールデンウィーク直前に引っ越しをした。今の家を初めて訪れたのは、まだ寒さが残る春のはじめだった。不動産屋さん、みーさん(夫)、私、それから前の住人さん。陽当たりがいいですねとか、ウォークインクローゼットがあるんですよとか、そんな話をしながら、ゆっくり部屋の中を見せてもらった。

部屋を一通り見たあとで、みーさんがカウンターキッチンに入り、シンクやコンロの使い勝手をチェックした。私はリビングからその様子を眺めていた。そしたら、不動産屋さんが私のほうを向いて、ニコニコしながら言った。「キッチンは奥様が見たほうがいいんじゃないですか」

「えっと、」と私は言った。「私は料理しないんです」


私があの不動産屋さんだったら、同じことを言ったかもしれない。だから別に、怒っているわけでも、何か物申したいわけでもない。ただ、あのときのみーさんの心中を思うと、なんだかちょっと悲しいような、もやっとするような、ざわざわした気持ちになる。

だって、みーさんは私の500倍くらい料理が好きなのだ。私より帰りが遅くてもきちんとスープや副菜をつくるし、真夜中に肉の下味をつけたり、いろんなジャンルの料理本を買い漁ったり、休日は手の込んだ煮込み料理をつくったりしている。それなのに「キッチンは奥様が見たほうが」と言われてしまったら。私だったら、「え?」と思う。たぶん少しだけ、「いやだなあ」とも思う。


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この前、一緒に働いているKさんをイベントに誘った。彼女は5歳の子どもがいる。イベントは19時半からだ。Kさんに声をかけるとき、「夜出かけるのは難しいと思うんですけど…」と前置きをした。それを言ったあとで、あれ?と思った。

別に、普通に誘えばよかったのだ。夜の外出が難しいかを決めるのは、Kさん自身だ。私が勝手に決めつけることじゃない。


“私”が“世間の一部”になるのは、こういうささいな瞬間なのだ。「子どもは母親が見るべき」なんて口に出したことはない。思ってもいない。けど、そういう空気を醸成する水蒸気の一部になるのは、こんなささいな瞬間だ。あの不動産屋さんだって、「料理は女性がすべき」なんて口に出したことは、たぶんないはずなのだ。


平等とか差別とか、声高に叫ぶのはあまり好きじゃない。そういうことに対して、上手なことばの発し方を知らないから、大きな声を出せない。大きな声を出さない代わりに、図らずも好ましくない世論の一部になってしまった瞬間には、自覚的でありたい。


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料理はほとんど夫がする、という話をすると、10人中8人くらいには「いい旦那さんだね」と言われる。たしかにそうだ。いつもおいしいごはんが食べられて、私はとても幸せでうれしい。だけど、たとえばみーさんが女で私が男だったら。みーさんは「いい奥さんだね」と言われるだろうか、と、ふと考えたりする。

あしたもいい日になりますように!