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踊る大捜査線、その2【ドラマ】

僕は世間一般的な中下流的な家の生まれ育ちだとのだが、

こと、テレビにだけは飢えていて、もしかしたら、だからこそ、ネットが普及しつつあり、今後それが取って代わ等ことが見えて尚、テレビに強い憧れを抱いているのかもしれない。

中学校に入るまでは、それこそ自由には、アニメであり、仮に小学生が見るテレビ番組だったとしても、見る環境ではなく、ビデオを録るという行為なんて一般的ですら無かった。

巨人、大鵬、たまごやき、では無いが、典型的な長嶋茂雄世代の父の影響で、見る番組は基本はプロ野球中継、朝もズームイン、笑。

7時と21時のニュースはNHK、そんな家庭だった。

だから、中学校に入って、塾に通い出したことで、平均の起床時間が大幅に後ろ倒しになったことを良いことに、テレビのチャンネル権をゲットしたのだ。

時は1996年、4月。

月9ドラマとして、ロンバケが始まり、SMAP×SMAPが始まったその春に、僕はテレビの虜となった。

約9ヶ月掛けて、ドラマやバラエティや、いろんな番組に対する、知見というか、判断基準みたいなものを自分なりに磨いていって、

それこそ、テレビジョン的な雑誌をいわゆるクールごとに買ったりして、ドラマを見る前にこれは視聴率が出そうか、話題になりそうだから、一旦見ておこうか、などということをやっていた。

1997年1〜3月クールのドラマは、これは記憶ではなく、今調べたのだが、月9はバージンロード、土9サイコメトラーエイジや、他に常盤貴子さんや、明石家さんまさん、竹内豊さんなどなど、錚々たる顔ぶれのドラマが目白押しの中、

フジテレビ火9時枠(であることも含めて)、踊る大捜査線はテレビ雑誌の表紙はおろか、トビラページ的なところも獲得せず、本当に端くれのような扱いで何とか掲載されていたドラマだった。

刑事もの、織田裕二、いかりや長介、それぐらいの印象だった。

話題になるとは思わなかった、でも何故か心が本当に躍る感じして、とりあえずマルを付けたのを記憶している。

でも、初回を見逃した。

1997年1月開始のドラマである。

その時のお正月に僕は生まれて初めて自分のお金、まぁお年玉なのだが、きちんと意思を持って買い物をした。それが、サンヨー電機製のビデオデッキだった。

たしか、もう潰れてしまっている第一家電という割と安い売りチェーンの、しかも大特価の品物で、結果愛着と共に恐らく7年以上は使ったと記憶している。

そのビデオデッキを買ったのにも関わらず、しかも月火水で通っていた塾でも無い日なのに、普通に見逃したのだ。

もしかすると、この経験とのちに最終回の残り10分が見れなかったことが、自分の中で呪縛のように残ってしまい、好きから、愛へ変貌していったのかもしれない。

だから、一番好きなドラマである踊る大捜査線は第二話の、いかりや長介さんが爆発物を仕掛けられてしまう、そんな回から見出したのである。

8個離れた兄の影響もあり、刑事ものは物心ついたころか、好きなジャンルだった。

兄はあぶない刑事シリーズのファンで、僕も父が帰宅前の再放送枠の、時間はチャネル権があったことから、あぶない刑事はよく見ていた。水谷豊さんと言えば、僕には刑事貴族だと、思ってしまうほど、これも再放送で見ていた。

そんな免疫というか、理解の前提が刑事ものにあった中で、社会の縮図を問うた内容であり、社会の生きづらさを描いた内容であり、組織の中で生きる、ある意味ではサラリーマンとも言える刑事の姿に、共感を感じるとともに、

その一でも書いたように自分が社会に対して感じ始めた不満や、やるせなさみたいなものを、日本社会で生きることの何か本質のようなものを、見せられていることにとんでもないほど、共感し、熱い気持ちを持つようになった。

第二話から最終回まで、永久保存版的に録画していて、放送後も自分で繰り返し見るようになっていた。

つづく。


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