流儀 (from wikipedia)

稽古事が活発な日本社会に独特の家元と云う言葉をあなたは疾うにお聞及びだろうし、流儀流派という言葉も早くからお使いになってらっしゃるかも知れませんが、この流儀・流派の感覚はお稽古事に限るものでないと私は理解しているのです。国家を一つの意思の集団として纏めるのにも流儀・流派の感覚は力を発揮しているに相違なく、そうであれば運営サイトとも言えない小規模な私の「マガジン風水遊び」の場に於いても流儀・流派の感覚は些かも無視されてならないことになる。そういったことをウィキペディアを読みながら感じている私。ウィキに依ると個人‥でなく‥集団的、伝統的‥技能共同体を指すとあって、すなわち、科学の目にはそう見えても哲学の目を意識していないようだ。そうであれば哲学の視点が加わって初めて現代文明の厳しい批判に耐えられることは明白だろう。

そもそも流儀・流派の始まりは、例えば釈尊であり、例えばソクラテスであり、例えばイソップであり‥というように常に個人に始まっていても、集団に始まった例を私は知らなくて、あなたも私と同じく恐らくはご存じないだろう?お稽古事の目的は家元であると断定しても一向に構うまい。つまり、個人に始まった流儀が多くの門人へと分れたのちに最終的には家元へと収束する流れでヨシとしたい人にとっては嬉しいことに違いない。利益を目的とする事業家や芸能関係者にとっては願ったり叶ったりの流れだと言えるにしても、そうでない人たち‥例えば家族を不幸にしたくない想いの人、あるいは皆で仲よく暮らしたい人、あるいは自由に旅したり、山に登ったり、地を耕したりして暮らしたい人を無視してならないと私は思う。

だから魚を釣って生きる流儀(の暮らし)もあるってこと。だから他人がどうなっても俺には関係ないって流儀は好ましいだろうか?私たちが生きていると利害が反することはシバシバあって、だからそれをどうするかでしょう?俺には関係ないで済ませるのか?どこでどんな害悪があなたを襲うかも分らないような酷い社会であなたは構わないだろうか?あなたのお子や孫、家族が害悪に遭って、それでも俺には関係ないで済ませられるか?即ち他者の流儀に無関心でいてはならないと私は思う。あなたのお子の敵討ちが出来たらあなたは満足する人だろうか?仮にもそのような感覚のあなたは、あなたのお子から見て人でなしのケダモノでないだろうか?敵討ちの刑法で死んだ子が生き返る訳でない。死なさない工夫大人の、親の、責任だと思う。

ウィキペディアの情報を生かすのも大人の責任だと私は思う。いかが?

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