哲学は偏見との戦い

この表題は私の哲学から導き出された‥だからこそ偏見に囚われていない存在を見過ごしてはなるまいとも思う。ともあれ、私は常日頃から「偏見に陥ってはなるまい」と己を戒めている。いろいろ見聞きしてきたが、偏見は耳障りの好い言葉の敵で有り得ないのを感じる。「良薬は口に苦し」と言う‥それで余計に耳障りの好い発言に甘い評価を下してしまうのだろうなぁ。

どうせなら「褒める客は買わない」の庶民感覚も忘れてはなるまい。一所懸命に丁寧に商品説明してくれる店員さんなんだもの‥無下に断わるのは気の毒で、それで人の好い大阪のオバちゃんたちは褒めて褒めて褒めまくって、それからやっと店を後にする。それは他人のブログを訪ねたときにも生かされて(?)、嫌がることを言わないのを最上(さいじょう)とすることになる。

嫌がることを言いたい訪問客は滅多にいない訳で、他人は知らないけれど、私は健常者としての自負心を失わずに持っている。健常者‥これが大事①と思っている。苦い薬を嫌がっている幼児がいて、私はどう対応すべきか‥これも大事②と思う。他にもたくさんの大事はあるけれど、先ずは当面の大事く対応する。それが私の感性に寄っていることに疑いはない。

健常者としての判断を下せなければ私は⓵健常者でない。健常者は大人に対してモノの道理を説かない。私も大人に対してモノの道理を説いたことはない‥その点で私は健常者に違いあるまい。人は誰に対して道理を説くか?そりゃあ、②幼児に対して道理を教え説くと思う。健常者のあなたでなくてもそれに同意すると思う。すなわち、幼児か大人か‥区別することになる。

幼児を大人だと(私は)思い違いしてないか?思い違いの始まりは偏見にあるに違いない。こう導かれてきて私の大人観は定まることになる。いやいや、人はそれぞれだから私の哲学を認めたくない人はいらっしゃって、それについてはマガジンどろまみれ」では触れないことにしております。私の哲学に反発する人たちにまで此処での干渉はしないプランなのです。

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