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死ぬのが怖くて泣いた日

小学校低学年の頃の私はとにかく暇を持て余していた。

近所の友達と遊ぶ以外に時間を潰す方法を知らなかったので、一人でいることが退屈で仕方がなかった。

今思い出しても笑ってしまうのだが、1度余りにも退屈過ぎて「暇だ!暇だぁ!」と家の中で泣いてしまった事があった。

暇つぶしのテレビゲームも、近所のお兄さんからもらったファミコンのソフトはどれも難易度が高く小学生の私がクリアできるようなソフトは1本も無かった。

泣き叫んで駄々をこねても退屈な時間は過ぎ去らなかったので、畳に寝転がって見慣れた家の天井を眺める。

退屈な時間は、まるで嫌がらせでもするかのようにゆっくりと流れていたので私は頭の中に“時間が早送りされる世界”をイメージした。私の想像の世界ではタイムラプス動画のように時間が過ぎ去り始める。

雲はものすごい勢いで流れ、時計の短針すら目で追えるスピードで動く。駆け足で日が昇っては沈み、車の渋滞は数秒で緩和され、街ゆく人々はもはや残像しか見えない。

私の住んでいる田舎町にも高層ビルが立ち並び、人々で賑わい始めた。恐らくここまで地元が発展した未来には、私はもう生きていないのだろうなぁと思った瞬間、タイムラプスのように進む世界に突如「私のお墓」が現れた。

構図としてはお墓が手前に映し出され、後ろでは相変わらずタイムラプスの世界がとてつもない勢いで発展を遂げていくのだが、それとは対照的に私のお墓はボロボロに朽ちていくというものだった。

私は子供ながらに「これ以上考えるのはヤバい」と思ったのだが思考を止めることが出来なかった。私の存在は肉体と魂を持ってこんなにもハッキリと今ここに存在しているのに、死後の世界には私がどこにも存在しない。そんなとてつもなく重大な事件を差し置いて、世界は平然と回り続けているのがたまらなく恐ろしかった。

気が付いた時にはボロボロと涙を流して「死にたくない、死にたくない」と母に泣きついていた。

「そんなすぐには死なないから大丈夫だよ」と母はあきれたように笑いながら私をなだめてくれたのだが「死にたくない」の一言では私の恐怖が伝わらなかったのも無理はないだろう。


__歳を重ねた今ではもうあの時のような、死への純粋な恐怖を味わうことはないのだが、それは死への恐怖から上手に目を背けられているからだろう。

死が私にとって「救済」のような意味合いを持ってしまっているのも死の恐怖への解像度を下げてくれているのだと思う。

死の間際になって初めて自分が世界から除外されてしまうことへの恐怖や、後悔、苦しみなど、色んな感情が溢れてあの頃と同じように泣いてしまうのかも知れない。

小さい頃から泣き虫なのは大人になった今でも変わらない。それはきっとこれからも変わらない。ならばせめて死の間際、こんな人間でも笑って死を迎えたいと思うのだが、それは叶わぬ願いだろうか。

おいしいご飯が食べたいです。