町工場で出会うおっさん達

町工場には個性豊かなおっさん達が沢山勤務している。私が以前、積水ハウスの下請け工場で派遣社員を務めていた時にも出会うことがあった。

そのおっさんは私とは違う派遣会社からその工場に雇われていたのだが、お互いが勤め始めた時期が近かったため、10分休憩や15分休憩の時間には軽く世間話などを交わしていた。

工場内に設置されたプレハブの休憩所ではいつも、缶コーヒーを片手にタバコをふかしていた。実年齢よりもやつれて見えた表情が印象に残っている。

喋る言葉には殆ど抑揚がなく、おおよそ感情というものを感じさせなかったおっさんだった。社員の方々からはよく「あいつは目が死んでいる」と言われていたが的確な表現だったと思う。

私が勤めていたその工場は今まで働いてきたどの職場よりも大きな会社だった。巨大な工場の敷地内には、メインの工場の下請けの会社、その下請けの下請けの会社が複数存在していた。汚れた作業着をルーズに着こなしている柄の悪そうなヤンキー上がりの労働者達が昼休憩中には手マンの話題で盛り上がっていた。

そんな大きな会社だったので私のような派遣社員だけでなく、何かと話題の外国人研修生・技能実習生も多かった。特にインドネシアからの研修生の数はとても多く、お昼になるとサッカーボールで遊び始める研修生や工場の敷地内で神様に祈りを捧げる方々も何人か見かけた。

日本で工場勤務が始まる研修生は何故か皆丸坊主の状態で仕事を始める。まるで丸刈り校則時代の中学生を見ているようだったが、着ている服がまだ汚れていない綺麗な作業着ということもあり、帰り際に綺麗に整列させられていた丸坊主の研修生を眺め「あれじゃまるで刑務所だな」などと社員の方と話をしていたのを思い出す。

数年単位の研修、実習を無事に終えると地元に帰国するらしく、1度だけ第何期生かの帰国のバスを社員一同でお見送りしたことがある。そこで「目が死んでいる」と言われていたおっさんから「研修生の過酷な実態」的な話を聞かされていた。

「彼らは日本人よりも賃金が安いから~」「稼いだお金もほとんどは~」など、よく耳にするような話を聞かされ研修生を憐れむような態度をとっていたが、私たちも派遣社員である以上人の心配など出来ないだろうと思いながら話を聞いていた。

私は当時、車の免許を取得しておらず、片道を20分ほどかけて自転車で出勤していた。目の死んだおっさんも同じように自転車で通勤していたのだがある日、「自転車がパンクしてしまったので1000円貸してくれないだろうか?」と頼まれたことがあった。私は1000円ぐらいならいいだろうと思い「帰りは大変ですね」などと言いながらおっさんに1000円札を渡した。


_私が勤めていた下請けの工場では社長が自ら現場の指揮を取り、共に仕事をこなしていたのだが、仕事の遅い私と目の死んでいるおっさんは仕事中も頻繁に社長に怒られていた。

その日も、昼休憩前に遠くでおっさんが社長に怒鳴られているのを見かけて肝を冷やしながら仕事に取り組んでいたのだが、食堂に行く前の私におっさんは一言「ちょっと、体調崩したって事を伝えておいてくれないかな?俺は今日ここで抜け出すわ」そう言い残して工場を後にしていった。

社員の方にそのことを伝えると呆れたような表情で笑っていたのだが、その日から目の死んだおっさんが工場に戻ってくることはなかった。


__おっさんが工場を辞めてから1週間後ぐらいだろうか。私が作業着のまま大学生の友達の家に転がり込みこんで遊んでいた時のことである。

携帯に見慣れない番号からの着信がかかってきたので通話に出てみると、1週間前に工場をばっくれたおっさんからだった。

内容としては今度一緒にお茶でもどうだろうか?というお誘いと、お金に困ってしまったのでまた少しでいいのでお金を貸してほしいとの要求だった。おっさんは私からの自転車パンク修理代である1000円を返済しないまま、工場を辞めてしまっていたので私も呆れてしまい、早々に通話を切ってしまった。

それ以来おっさんとの連絡は一切取っていない。

それから数週間後、おっさんという標的がいなくなったことにより、社長の怒りは仕事のできない私に集中砲火で降り注ぐことになった。

その工場内に努める唯一の女性社員(社長の身内の方だったらしい)の方から、私が怒られるたびに「あんなふうに言っているけれど、全然きにしないでいいからね」と優しい言葉をかけてもらっていたのだが、数日で心が折れてしまった。

どんな仕事も基本的には作業スピードが遅く、まっとうにこなせるようになるまで時間がかかってしまう私の更に悪い点として、怒られるという恐怖で頭の中がいっぱいになってしまうと殆ど仕事が手につかなくなってしまうということだ。

二人でこなさねばならない作業を社長と共にやっている時などは自分でも信じられないミスを連発し、その度に社長に怒鳴られていた。

「日本語もわからねぇ研修生にできて、なんでてめぇはこんな簡単なこともできねぇんだよ!」と何度も怒鳴られては下唇を噛みしめていたのだが、その日はあまりにも辛すぎて仕事中にも関わらず涙をこらえることが出来なかった。

ワークキャップを深くかぶり、工場内で支給されるマスクで泣き顔を必死に隠していたのだが、いつものように慰めに来てくれた女性社員さんには恐らくバレていただろう。

死んだ目のおっさんが仕事をばっくれた時のように、私も派遣会社や勤め先の工場に何も伝えることのなくその日から工場に出勤することを辞めた。

そこからまたしばらく長いひきこもりの生活が続くようになるのだが、ふとあの死んだ目をしたおっさんの事を思い出す。

一回り以上年下の私からお金を貸してほしいとお願いするほどだ、生活はかなり苦しかったのだと思う。死んだ目のおっさんはなんとかやっていけているだろうか?

今回のnoteではおっさんの事を随分と印象悪く綴ってしまったのだが、こういったどうしようもないおっさんでも生きていける社会を私は望んでいる。恐らくこのおっさんが生きていくことが難しい社会では私も到底生きていくことなど不可能だからだ。

賃金は安くてもいい、居場所があるということと、誰かから必要とされるということがとにかくありがたい。それは裏を返せばチョロい人間で舐められてしまうということでもあるのだが、強気で生きていけるほどの人間性を私は兼ね備えてなどいない。

私が社会復帰することがあるならば、願わくば次の職場は仕事中に泣いたりしなくて済むようなそんな職場を希望したい。

おいしいご飯が食べたいです。