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「自由」に疲れてきた話

それは何かわからない束縛や規制からの解放感をイメージさせた。どうにも息苦しい世の中において、それでも自由を高らかに歌い上げるアーティストはとても輝いてカッコよく見えたし、今でもその気持ちは変わらない。

しかし、人生がどうにも上手くいかないまま年齢だけを重ねてきた結果、いよいよ自由というモノに対してある種のしんどさの様なものを感じている。

Twitter上で「自由とは弱肉強食をマイルドに言い換えただけのものだ」という言説は数年前から見かけていたのだが、最近は個人的にもこういったことを感じることが多くなってきた。

人と関わることが苦手なのにも関わらず、私は懲りずにネット上でサイファーを楽しんでいるのだが、何を発言しても自由なサイファーですら私は「何を言うか」よりも「何を言わないか」に重きを置いてしまっている。

気が弱い分どうしても「ここでは何を言ったって自由だぜ」な人々に押し負けてしまい、その人の発言とぶつからない様なルートを選びながら発言したり、それすらしんどくなってしまうと途中でその場を後にしてしまう事も少なくない。

誰もが自由に発言すれば、どちらかが道を譲らない限り容易くぶつかり合ってしまう。自由を謳歌する人の自由はまさにその人以外の自由を抑圧することによって成り立っている事は少なくない。

当然その発言内容を非難することも自由なのだが、それで相手との衝突でも起きてしまった日には間違いなく体調を崩して何日も寝込むことになるルートが待っているので、貧弱なメンタルの私としてはとても割に合わない。

自由には「選択」や「表現」といったものも当然含まれる。「選択の自由」についてはよく“自由恋愛”や“幸福追求権”(生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利)などの話題が登場するのだが、こちらも考えていくとなかなか心が荒んでくる内容だ。

再びサイファーの話で申し訳ないのだが、顔も名前も知らない人々が、自由に発言できる場でのコミュニケーションというのは時に色んな事に気づかせてくれたり、自身の考えを裏打ちする様な体験があったりもする。

コミュニケーションとはいえ、やっている事はビートに合わせてラップをしているのがメインなのでネット上では普段交わらないイケイケな方との交流も珍しくない。

つい先日も「クラブであった女子高生と性行為に及んだ」というかなり勢いのある方とサイファーをご一緒させてもらうことがあった。彼はとにかく「女好き」というキャラでコミュニケーションを楽しんでいるらしく、ストレートに「マッチョで男らしいラッパー」といった雰囲気だった。

私も「非モテ」というだけで女性が嫌いな訳ではない。なので「私はもう何年も彼女なんていないので羨ましい」と彼に伝えると「マジで?…えぇ…街に出れば女なんていくらでもいるでしょ?」と本当に驚いた様子だった。

恋愛が自由である以上、私と彼の非対称性はなんら驚くようなことでもない。誰を好きなるのも自由であり誰を選ぶのも自由な現代において、わざわざ非モテ(コミュニケーション能力や容姿に恵まれず、収入もない)な人間をパートナーに選ぶ者などほとんどいない。

つまりモテは一点に集中してしまうことになる。これは、お金を持っている人の場所へお金が集まる事や、いい人の場所にいい人が集まってしまうのと同じ仕組みだ。

自由恋愛を謳歌していた彼からすれば、とても信じられない事だったのかもしれないが、魅力や人間関係の格差を裏打ちさせられた出来事だった。


__最後に「表現の自由」について
これについて度々話題に上るのは、他人を不快にさせるような表現や、社会的文脈における弱者への配慮を欠いてしまったような表現への規制問題についてだ。

特に、エロ・グロ・ナンセンスなどの表現への風当たりは強く「女性をモノのように扱った創作物」や「地上波のお笑い番組」についてはTwitter上でも度々火柱が上がっているのを見かける。

そういった創作物や表現を見てしまった方の被害者感情を刺激してしまうような内容であることは良く分かるのだが、だからと言ってそういったものを規制に追い込んでしまって本当にいいのだろうか。

自分が「気に入らないから」という理由で何かを潰してしまった時、それは自分が好きな何かが他人から「気に入らない」という理由で排除されない保証はなくなったという事だ。

何より私自身がそういった表現や創作物を作る側の人間であるのでこういった問題の取り扱いには慎重にならざるを得ない。

__と、ここまでの話ならばネット上でもう何度も目にしている人も少なくはないだろう。今綴ったことも間違いなく私の本心なのだがその反面、自由疲れや自身の弱さから、つい良からぬことを考えてしまう。

例えば他人の創作物や表現について、私はそこまで不快になることは無いものの、もちろんゼロではない。他人の発言に限定すれば寧ろ不快な思いをすることの方が多い。

今私がこうして綴っている文章も、今までに描いたイラストも、歌った曲も、間違いなく誰かを不快にさせ傷つけるものだ。そして「誰かを傷つけ不快にさせる」という事を理由に表現を潰していけば、残るのは毒にも薬にもならないモノだけだろう。

しかし、国や政府による徹底した表現規制や言論統制の中で我々の自由を代償にもし「誰も傷つくことのない世の中」が達成されるのならば…私は心が揺らいでしまう。もちろん、そんなものは理想に過ぎないし、歴史を振り返れば自由を勝ち取るためにどれだけの犠牲があり、それを表現できることがどれほど尊い事なのかは分かっているつもりだ。

それでも考えてしまう。私が実際に享受している自由や、それによって得られたものと、他人が自由を享受するために明け渡した席の数は果たして平等だっただろうか。仮に後者に比重が傾いているなら、それでも自由を擁護するだけのメリットが私の中にあるのだろうか。

資本を持っている人の場所に資本が集まり、魅力のある人の場所に魅力のある人が集まり、正しさを持つ人の場所に正しさが集まる。そして、そのほとんどを持ち合わせていない私が自由という名のサバイバルゲームの“ルール”を守り続けることに意味はあるのだろうか。


__恐らく“自由”とは、私が想像しているよりもずっと尊いものなのは間違いない。たやすく手放していいものでは決してないはずだ。

誰もが自由を謳歌できる社会において、ここまでハッキリと目に見える形で広がってしまった格差。私よりずっと賢い者が、富める者が、魅力に溢れる者が、自由を高らかに謳う時、私の心にはどうしようもない影が差す。

たとえ私には何を手に入れることが出来なかっとしてもこの自由は、かけがえのないモノであると自分に言い聞かさなくてはならないのだが…

最近自由に疲れを感じてきている情けない自分が、どうしようもなく肩を落としているのを実感する。

気弱で女々しい私は、基本Twitterで表現規制に躍起になっている人々と本質は変わらない。

違うのは私がたまたま「許せない」「傷ついた」と喚き散らしたところで、誰かが心配してくれたり擁護してくれたりする属性の人間ではなかったというだけだ。

これを読んでいるあなたにとって“自由”はまだ輝かしく尊いものであり続けているだろうか?

おいしいご飯が食べたいです。