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「正しさ」は 持っているだけじゃ 意味がないぞ!


基本的には「ルール」や「規則」といったものには従いつつ、いざという時にはソレを破ることになったとしても「仲間」や「家族」「大切な人」を守る。

そんな「バランス感覚の良さ」を持った人が一般的な「いい人」だと私は思う。漠然としているが「いい人」の最大公約数はそんなところに落ち着くのではないだろうか。

職場、家庭、学校、様々な場所で生じる人間関係に私はずっと頭を悩ませてきた。人間関係には「正しさ」や「間違い」だけでは割り切れない部分がたくさん存在したからだ。

恐らく、ただしくないであろう友達を擁護したこともあったし、ただしくない私を守ってくれた人もいた。ただしいと信じていたことを糾弾されたこともあれば、間違いだと知りながらそれ止めることが出来ないこともあった。

「王様は裸だ」と純粋に言えていた子供も大人になれば「あれ、おかしくね?」と思う出来事に下手に突っ込んだり、手を出すことはしなくなるだろう。(そんな純粋な子供がいるのかは別として)

王様が裸であることなど、誰もが承知の上でその「ゲーム」に参加しているし、ちっぽけなただしさを追求することのリスクを考えると、それはとても馬鹿馬鹿し事に思える。

それ故、そのただしさがどれだけくだらなくとも、それを追求し続けることのできる大人はとても素晴らしい人だなぁと思えた。

今でもその気持ちはあまり変わらないのだが、その時の私は「正しさの民」の苦しみをあまり知らなかった。


正しさの狂戦士

__冒頭で語った「バランス感覚の良さ」を持ち合わせない人達の中には「正しさなど気にも留めない人」もいれば逆に「異様な正しさへのこだわりを見せる人」もいる。大人になっても臆することなく「王様は裸だ」と公言してしまう人達だ。

そのバランス感覚の悪さ故に、周りに人々から煙たがられ、距離を置かれて次第に孤立してしまう人達を少なからず見てきた。

その中には圧倒的知性や魅力を兼ね備えたタイプの人もいる。「人々が抱いているモヤモヤを上手に言語化してくれる人」や「思っていても口に出せない事を歯に衣着せずズバっと言い放ってくれる人」などなど…当然注目され人から恨まれることも多いが、それ以上に尊敬の念を送られている人も多い。

そして、ただバランス感覚が悪いだけのその他大勢はカリスマになれないどころか「空気の読めないやつ」「礼儀や良識をわきまえない人間」として学校や職場では遠巻きに扱われることとなる。

状況に応じては、忖度せずにあえてただしさを押し切る様な人もいるだろう。しかし、そういった人の様に「正しさの使い分け」が上手にできない人物が何気なく口にしてしまうただしさはあまり人々から歓迎される事はない。

その人物が圧倒的な力やカリスマ性でも持ち合わせていない限り、誰かを傷つけてまでただしさが追及されることなど殆どの人は求めていないからだ。

私も職場や学校でそういったタイプの人間と出くわすと距離を置いてしまいがちだった。本人からしてみればただしい事を言っているのに、人々から邪険に扱われ遠ざけられてしまうのは理不尽と感じるだろうし、その苦しみは計り知れない。

最近ではそういった人々の苦しみは「病名」や「障害」といった形で人々に認知されるようになってきた。それと同時に「苦しみには理解を示すが、それでも私の傍には居ないでほしい」という人々の声も見かけるようになった気がする。

__そういった苦しみを抱えている人々への理解を深め、それを多くの人に知ってもらおうと試みる人がいる。当事者間の親睦を深め、繋がりの中で苦しみを和らげようという取り組みに励んている人もいる。

それはある人にとっては希望であり、ある人にとっては絶望の様に見えたかもしれない。

人には理解されがたい苦しみを抱える一人として、私はどんな風に人と関わり、社会と関わって生きていけばいいのだろうか…そんな風に考えることが昔よりも多くなった。



正しさが残された最後の武器

Twitterを眺めていると、日々炎上ネタや社会問題についての言及や議論を見かけない日はない。実際は私がそういったタイムラインを作り上げているだけで、知り合いは平和なTwitterを楽しんでいる人がほとんどなのだが…。

炎上ネタや社会問題について議論している人々やレスバトルをしている方々に対して、私は高見の見物を決め込んでいる訳ではなく、寧ろ果敢にその炎の中にダイブしようと試みている。

世の中で起こる事件や事故について思うところが無い訳ではないので、そういった事柄を発見するとどうしても一言物申したくなってしまうのだが、前述した「圧倒的知性」を持った方々や「歯に衣着せぬカリスマ」達がその事象を素早く発見して最前線へと飛び立って行くのを見送った後だと特に言うこともなくなってしまう。

そこに追随してなにか言いたいところではあるのだが、私の足りない頭をどれだけ捻って言葉を紡ぎだしても、既に誰かの二番煎じであったり、賢い人々に比べれば圧倒的に「解像度の低い」意見になってしまうので、そんな劣化したものを吐き出そうとも思えない。

私はもともと、自身の幼稚な意見を全く顧みることなくツイートできてしまう人や、明後日の方向に対してリプを送ってしまうような「無知の知を欠いた人間」や「ナイーブな人物」がとても苦手だった。ああいった手合いにはなるまいとそれを静観することはあっても物申すことなどほとんどなかった。

ツイートをしてしまった瞬間に、私の言葉も数多ある「幼稚な意見」の一つになってしまうし、賢い人物からそんな泥仕合の様な議論を見られるのはとても耐えがたい事だった。私が冷めた目でそれを眺めていたように、フォロワーや知らない誰かから私の意見を冷めた目で見られるのか思うと、とてもツイートなど出来なかった。

…出来なかったのだが、ある日そんなことを気にすることなど殆どなくなり、よくわからない持論や自分語りを連投するようになってしまう。

それだけならまだよかったのだが、私の事をフォローしてくれている人々に対してやたらと攻撃的な態度を取ることが多くなった。昔からの友人、ネット上での知り合い、噛みつけそうな意見にはひたすら文句をつけていった。

そんな狂犬のように周りに噛みついてしまった理由の一つが私にとって「正しさこそが最後に残された武器」だったからではないかと思っている。

先に記した通り、普通に生きていればただしさなど過度に追及しなくてもいいものだ。友達や家族、会社の同僚や知り合いの中で共有された「適度に緩い正しさ」さえ守れていればそれでいい。

しかし、友達や家族や社会といった繋がりから絶たれてしまった人物はどうだろう?冒頭で述べた、間違った自分を擁護してくれるような友達や良き理解者に恵まれなかった人物だ。

「親しい人物からの支えや理解」「思いやり」「優しさ」そういった繋がりから漏れてしまった人が、それでも自身を肯定してくれる存在がただしさなことは少なくないように思う。

社会に所属することなく、中間共同体のような場所にも属さず、ネットの小さなコミュニティにも馴染むのが難しい私にとってただしさはとても「魅力的な装備」に思えた。

ただしさを武器として手に取り誰かを叩くことによって人々との繋がりの中では得られなかった承認を得られ、皆から認めてもらえるチャンスがあるのなら、ソレを獲得するためにただしさを握りしめて思わず振り下ろしたくなってしまう。

しかし、実際にそれを手に取り振りかざすことは容易であったとしてもINT(知性)が足りない事により本来の力を発揮できないどころか、論敵に向かって振るったはずの武器が自分目掛けてフルスイングしていることも珍しくなかった。

結局、残された最後の武器に思えたただしさは自身の装備レベル不足で十分な力を発揮することが出来なかったのだ。それでも懲りずに、いつかはクリーンヒットするのではないかという希望を託して現在もこの武器を振り回し続けている。

恐らく手放したほうが今後失うものは少なくて済むだろう。私に残された若くて有意義な時間はそう多くはない。今からでもこの扱えない武器を手放して狂気の坂をかけ降りることを止めるべきなのだ。

十分に理解しているつもりでも、自制のブレーキが効きにくくなっているのをひしひしと感じるし、さらに周囲からの孤立は加速していく一方だ。

いつ自分がその武器の餌食となるかもわからないのに、こんな人間をいったい誰が身を呈し止めにきてくれると言うのだろう?


__そんなことを繰り返すうちに人との繋がりや、求めていたはずの承認からはずいぶんと遠ざかってしまったように思う。

好ましくない言葉ではあるのだが、まさに自業自得と呼ぶにふさわしいところまで狂気の坂を転げ落ちているのではないだろうか。

そんなろくでもない事を繰り返してまでも私は誰かに認めてもらいたいたかった。それは、こんな武器を振りかざし、鬼の首を取った時にしか得られない血生臭い称賛などではなく

「間違っていてもいい」「正しくなくてもいい」という、ありふれた一人の人間としての承認だったはずなのに…。


おいしいご飯が食べたいです。