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「変人天下一武道会」と「ギークハウス」

 相変わらずインターネットで様々な方との交流を図る平穏な日々が続いている。人と話をするというのは本当に楽しい事だ。くだらない事で笑ってくれたり、逆に笑わせてもらったり、そんな何でもない時間を共有していると自分が真っ当な人間に思えてくるし、自分がダメな人間だという事を忘れさせてくれる。

 他愛もない話題に花を咲かせている限り、私に付き合ってくれる人々も私が10年選手のベテランニートである事には気が付かない。私も敢えて自身の置かれている状況を赤裸々に告白することなどないので「真っ当な人間として社会参加している感」を味わうことが出来る。

 しかし、インターネットフレンズ達と本当の意味で「何でもない時間」を悠々と過ごせるようになってきたのはここ最近の話だ。それまでの私は他者との関りにおいて自身の魅力を多分にアピールしてきた。「多弁で面白い人」「尖った魅力のある変人」「怪文章常習犯」「不敵なセクハラ人間」このどれもは意識的に他者へ向けてきた自身のセールスポイントだ。

 字面だけ見れば、いったいこれの何処がセールスポイントなのか?と思われるかもしれないが「自身が平凡な人間とは少し違う個性的な人物である」という事を匂わせる行為は、相手に自身の存在を強く印象付ける。良くも悪くも記憶に残りやすい事は確かだろう。例え歪であっても自分を強くアピールすることにより、「認識外の人」や「透明人間」からの脱却は図るのだ。悪名は無名に勝る。

 もちろん、人は大なり小なり自分を魅力的に見せて他者とのコミュニケーションを図るだろう。それはインターネット上だけでなく、学校や会社においても同じことだ。幸いなことに私は「自身を着飾る」という行為に殆ど抵抗や疲れを感じることがなく、また「他とは違う個性的な自分アピール」においてもある程度の成功を収めることが出来た。

 そうして出来上がったコミュニティや友達の多くは共に個性的な人物であり、私とは違う方向性の「尖った自分」を持ち合わせている人々だった。皆が一様に“変人”であり、そんな自分を披露しては卑下し笑いあった。新たに出会う友達やコミュニティの新規参入者もこうした場の雰囲気を感じ取ると、自身の意外な一面や、尖った部分を露呈し共に親睦を深める。

 私はこうした関わり合いにとても居心地の良さを感じていたし、友達のダメな一面や、爛れた部分を見ると「皆も同じようにダメじゃないか」「しょうもない人間は私だけではないのだな」といった、一抹の安心感を覚えていた。


__そんな調子のいい日々が続いていたので、私は余裕があるうちに次の行動を起こす事にした。「新たな居場所」の確保である。

 私のような人間は一つの居場所に寄りかかりすぎてしまったり、一人の人間に精神的な体重を預けすぎてしまう事が少なくない。それは当人を更なる孤立へと導く負のスパイラルへの入り口だ。そうなってしまわない為にも自分の居場所を今のうちに増やそうという作戦である。

 難儀なことに私は不特定多数の人が存在するコミュニティというものがとても苦手だ。そこで人間嫌いの寂しがり屋である私がとった作戦は「マイクロ共同体」のような居場所を自分で2~3作りあげるというものだった。

 それは、およそ10人も満たない面子で構成され、少人数ながらも自分を筆頭にある程度アクティブに関り合いを持ち続けるコミュニティだ。現在この作戦はある程度うまくいっているが、一つのコミュニティが楽しくなってしまうと、他の場所が疎かになってしまいがちなのが悩みである。願わくばこの状態を長く維持できるといいのだが、自分の調子の良さ程あてにならないものはないので油断は出来ない。

 そして、私が作ったそれぞれのコミュニティは他のコミュニティとは殆ど関りを持たせないようにしている。私が特定の人物にどれだけ魅力を感じ、好感を持とうが、AグループとBグループ両方に招待するという事は絶対にない。私が大人数を束ねる能力がないのは勿論だが、多くの人を集めたのにも関わらず居場所が一か所しかないのでは、その場に居られなくなった時に一瞬で孤立化してしまう。「居場所が複数ある」という事が何より肝心だ。「リスクの細分化」とでも言えばそれっぽく聞こえるだろうか。

 決して交じり合う事のないコミュニティで日々を過ごしているうちに私は、今自分が存在しているグループによって立ち振る舞い方が大きく違う事に気が付いた。冒頭で語った「変人コミュニティ」に属していた時には、あれほど自身の尖っている部分をアピールすることに夢中になっていたのに、今楽しいと思える居場所ではかなり力を抜いた状態で人と接している事が多い。もっと言えばお喋りの頻度も低く、私の言葉数も少ない。

 外部や内部と比較し相対的変人である事がやんわりと求められ続けていた前者のコミュニティがシステム上、人をお喋りにさせ「こう在りたい自分」「人からこのように見られたい」という欲求に拍車をかけさせてしまったのかもしれない。自身をアピールし、ポジションを確保し続けるコミュニケーションというのは少々息苦しさを感じる事もある。それは「自身の価値」や「位置取り」のようなものを他者に委ねる事によって感じる息苦しさだ。

 後者のコミュニティに属する人々とお話していると、多くの人が健全な自己愛や自己肯定感を持ち合わせているように感じる。尖った自分でなくていい、魅力的なトークスキルを持ち合わせなくてもいい、他者と比較する必要なく自身を肯定できているのだから、殆ど「そのままの自分」でそこに存在することが出来る。過度に自分をアピールぜず、売りにも出さない。そうした一種の余裕のようなものが私には魅力的に見えた。

 他者との交流の中で揺らぎ続ける自分という存在が薄れぬよう、自らをアピールし続けていたのが滑稽に思えるほど、自然とそこに在るだけのコミュニケーションというのは不思議な感覚だった。今でも不安や戸惑いのようなものはある。それはいわば『ギークハウス』の住人のように同じ空間に集まりながら各々がPCの液晶を見続けるような、オフ会で集ったはいいが会話が弾まずに永遠とスマホに視線を落としてしまうような感覚だろうか。

 それでも、前者のコミュニティがそうであったように、そこに長い時間身を置いていると、その場の空気感に自身が適応し馴染んでいくのを感じる。昔からそうした居場所にいた人々には当たり前のことかもしれないが、私にはこの感覚が非常に新鮮で心地いものに思えた。

 現在は後者のコミュニティに属している方々と交流することが多く、またその場所に新鮮さを感じている為、二つのコミュニティをかなり比較的に綴ってしまったが、前者と後者のコミュニティどちらにも程度問題が存在しており、どちらがより優れてた居場所なのか?というよりは、自分はどちらのコミュニティが向いているのか?どちらの方がより快適に過ごせるのか?という事の方が重要そうだ。

 前者のコミュニティから少し距離を置いて初めて見えてくる良さや魅力もあるだろう。逆に今新鮮さや居心地の良さを感じているコミュニティに身を置き続ける事で見えてくる問題点も存在すると思われる。

 今後も余裕のあるうちに自身の身の振舞い方や所属するコミュニティについての考えをある程度まとめ、後の居場所づくりや人との関り方の参考になっていけば幸いである。

おいしいご飯が食べたいです。