歳を重ねる事が耐え難い

早寝早起きを心がけようと夜に床に就くも眠りが浅く、深夜に目が覚めてしまう。変わりに日中はとにかく眠いのでどうしても夜型の生活になりがちだ。

そんなある日の深夜、目が覚めてトイレに向かい洗面所の明かりをつけた時のことだった。まぶしさに目がくらみながら鏡に映った顔を眺める。

思わず顔をしかめてしまうほど老け顔の自分がそこには写っていた。寝起きで浮腫んでいるということもあるのだが、眩しさでしょぼくれた目、眉間やおでこの皺、ほうれい線などが際立っており、10年後、20年後の年老いた顔がありありと想像できた。

鏡に映る自分のしょぼくれた顔を見て「いろいろと厳しそうだな…」と思ってしまう。当たり前かもしれないが「可愛くない」どころか気持ち悪い。

今はまだ家族とのつながりの中で最低限の生活を許されているが、これを失ってしまった時、私のビジュアルで庇護欲を刺激される人はまずいないだろう。

「未来ある若者」というビジュアル的情報と価値を失ってしまったとき、今ある自身の苦しみを一身に背負うことになるのかと思うと思わず身体が震える程だった。

それは、鏡に映る私を眺めた時に「こんな気持ち悪いやつ、助からなくたって自己責任だろ」という感情を他ならぬ自分自身に感じてしまったからだ。

思わず将来的にも誰かや何かから支えてもらうことを前提のみっともない心が文章から露呈してしまった。自立の道をあきらめた訳ではないのだが現在も、私は誰かや何かからの支えによって生かされている事はどうしようもない事実である。

そして家族以外の「支え」や「繋がり」は今の私が「若者である」という力を借りて成り立っていることが少なくない。

将来、この若者パワーを失ってしまい、周りからの支えや繋がりを失った時、それでも一人で生きていける力を私は持ち合わせてはいないだろう。

「若者」と呼ぶにはそろそろ厳しくなりそうな、それでいて「おっさん」を自称するにもまだ青い中途半端な年齢なのだが、そんな同年代の知り合いには「おっさん」自称する人が少なくない。

「若者」というのは価値であると同時に、それだけで舐めて見られてしまったり、甘く見られることも少なくないのでその気持ちはとてもよく分かる。自身を「大人だ」と表現するのもなんだか滑稽に思えてしまうので「おっさん」と表現するのが妥当なのだろう。

しかし、彼らのように嬉々とした態度で自身の老化を語ることは今の私にはとても出来ない。

「近頃の若者」として散々揶揄されてきた身としては、若者であることのプレミアを味わい尽くしてからおっさんにならないと割りに合わないと思っているのでもうしばらくは「若者ポジション」で粘らせてもらいたい。

学生のころは1つ上の先輩の「一つ上の雰囲気」がはっきりと雰囲気で感じ取れていたし、バイト先でお世話になっていた「27歳」の先輩は間違いなく「27歳」の顔立ちをしていたのだが、最近ではそれも曖昧になってきた。

歳を重ねるにつれてこうした「年上の雰囲気」のようなもは曖昧になっていくのだろう。

そして今、当時のバイト先の先輩と年齢が並んでしまった。私よりもう少し年下の方から見れば私はきっと「27歳」の顔立ちをしているのだ。

そう思うと…やはりなんとも複雑な思いである。

「歳を重ねる」という事自体を憂う人もいるかもしれないが、今の私は「自身を受け入れられないまま」歳を重ねるということが、とても耐えがたく感じている。


おいしいご飯が食べたいです。