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このゲームはぶっ壊れてる:「クランズ・オブ・カレドニア」のゲームバランスについて(This Game is Broken: Game Balance in Clans of Caledonia)

本記事は、Anthony Faber氏が2019年10月25日に投稿した「This Game is Broken: Game Balance in Clans of Caledonia」の翻訳である。

本記事は「クランズ・オブ・カレドニア」を軸にしたレビュー記事となっている。「クランズ・オブ・カレドニア」は、ドイツのベルリン出身のデザイナーJuma Al-JouJouが手がけた作品である。2017年に出版された1人から4人用のゲームで、プレイ時間は1人当たり30分となっている。BGG上の重さは3.46である。Juma Al-JouJouには本作品のほかに大ヒットした作品はなさそうであるが、近時、「Thiefdom」のKickstarterキャンペーンが成功していたことが記憶に新しい。

本作品は、「テラミスティカ」に強く影響を受けたゲームとして有名であり、「テラミスティカ」と多くの類似点が見受けられる。そうとはいえ、「テラミスティカ」や「テラミスティカ:ガイアプロジェクト」とは異なる特徴を持っており、「クランズ・オブ・カレドニア」独自のファンも多い作品である。また、Kickstarterで成功した作品としても有名であり、本年11月頃に、本作品の拡張である「Clans of Caledonia: Industria」がローンチされる予定とのことである。なお、本作品はテンデイズゲームズから日本語版が出版されていたが、残念ながら、現在は在庫がないようである。

本記事は、「クランズ・オブ・カレドニア」を含めたいくつかのゲームに関するゲームバランスに焦点を当てた内容となっている。ゲームバランスが"ぶっ壊れている"「クランズ・オブ・カレドニア」のレビューを通じて、一般論として、ゲームバランスが"整えられている"ことの意味のなさを具体的に明らかにする内容となっている。

本記事末尾に、今まで翻訳してきたゲームバランスに関連する記事を掲げた。またゲームバランスに関して参考となる記事は多くあるが、現時点で最も詳しく分析されており、大変勉強になるものとして、以下のものがある。

最近、話題になったポスト(ツイート)として、以下のものがある。ゲームバランスに係る判断の構造的な問題を示唆する大変有意義なものと思われる。

元記事は以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像は、BGGより引用させていただいた(クレジット: Juma Al-JouJou)。

ゲームバランスと「クランズ・オブ・カレドニア」の議論に加えて、スコッチウイスキーにまつわる赤っ恥をかいたボードゲーム体験についての思い出話をポッドキャストの形で聞きたいというのであれば、以下のリンク先を聞いてほしい。

"このゲームはぶっ壊れてやがる"、"この戦略は強すぎるね"、"このゲームは極めてバランスが悪い"

みんなこんな嘆きを聞いたことがあるよな。大抵の場合、イライラした敗者から聞こえてくる。不運を招く結果となった出来の悪いデザインや、根本的に公平性が欠如していることを大声で指摘してくる。私たちの大部分は、自分でそういった言葉を口に出したことがあるはずだ。

こんなコメントがBGG上のフォーラムやゲームの卓上でよくみられることを踏まえると、"多くのゲームはバランスが悪いのか?"と問う価値はありそうだね。そうでなければ、単に、サンプル数が少なかったり、残念な結果になってしまったりしたことに基づく遊ぶ側のバイアスにすぎないのだろうか?

その答えを率直に言わせてくれ。どちらも正しいんだ。

そう、ほとんどのボードゲームとは言わないまでも、多くのボードゲームは、大きなバランスの問題を抱えている。それと同時に、バランスの問題に関するほとんどの人の最初の印象というのは大抵間違っているんだ。

クレジット: Anthony Faber

ほとんどのゲームにおいて重大なバランスの問題を抱えていると思う理由について、ここ数年で発売された最も人気な中量級のユーロゲームの1つである「クランズ・オブ・カレドニア」を見ていこう。このゲームは、工業化したばかりのスコットランドを舞台にしたエンジンビルド・リソース変換のゲームだ。

メカニクス的にいうと、このゲームは、止まることのない(unstoppable, ※効率のよい)エンジンを構築して、ゲーム終了間際にエンジンを清算するという勝ち筋と、序盤に得点の獲得と契約の達成を推し進めようとする勝ち筋という2つの古くから考えられてきた勝ち筋の間で難しい意思決定を生み出そうとしている。これは、エンジンビルドゲームにおける伝統的なジレンマそのものである。「宝石の煌き」と同じくらい単純なゲームにすら、同じ緊張感が内包されている。

このゲームは、エンジンの構築という勝ち筋が過剰に優勢とならないようにするために、プレイヤーが契約を獲得するのがゲームの後半になるほど、その契約を獲得するための価格が随分と高価になるような設定となっている。また、プレイヤーが一度に保有できる契約は1つなので、エンジンが稼働してきて契約が高価になるのを待つよりも、まだ契約が安価なうちである序盤に契約を獲得して達成することに合理性があるようになっている。

ポッドキャストでこのゲームをレビューする準備として、この1か月間にわたって約30回ほどこのゲームをプレイした。そして、その大半は、Board Game Arena(※オンライン上でボードゲームをプレイすることができるプラットフォーム)上で行われて、その相手は何百回とこのゲームをプレイしたことがある多くの人たちだった。

ゲームをプレイして世界で最高ランクの何人かのプレイヤーと話すと、私は思いがけない結論に至った。それは、ゲームが進むにつれて契約のコストが増加するとはいえ、序盤に契約を獲得するよりも、序盤にエンジンを構築したほうが単純にはるかに有利であるということだ。ゲームの前半の大部分において契約を無視することで、当初、現実の卓上でプレイした時よりも、はるかに高得点を得ることができた。エンジンビルドに対する歯止めは、ほとんどの場合、序盤に契約を達成していくという戦略をとることを正当化し得るほど十分な効果がなかっただけだ。

Board Game Arenaのフォーラム上で同趣旨のことを述べる投稿を読んだ。その投稿では、最高ランクのプレイヤー全員がエンジン構築戦略を採用していると指摘していたね。このゲームのデザイナーは親切なことに応答しており、彼は投稿者と直接的には矛盾した発言をすることはなかったが、序盤に契約を達成するという戦略を追求するか、序盤にエンジンを構築するという戦略を追求するかを悩む多くの余地がゲーム内にあると思うと明確にしていた。

そして、このゲームデザイナーの理解は誤っている。

私が傲慢であるとか信じられないほど優秀であるとかといった理由で、こんなことを述べてるんじゃないよ。私は、Board Game Arena上で非常に高いランクにいるが、最高ランクというには程遠い位置だ。そうではなくて、Board Game Arena上で最高ランクのプレイヤー全員と十分な数をプレイして、序盤に契約を達成するという戦略を採用して高い得点を叩き出した人が誰もいないと気付いたから、こんなことを言っているんだ。

誰もいないんだ。

些細な例外というのはあるさ。特定の契約は、特定の状況下においては序盤に達成する価値があるほどの多くのお金を序盤にもたらしてくれるといった場合だ。けれども、最高ランクのプレイヤーは、序盤に得点を獲得するよりもエンジンを構築するほうが有利になるのが、少なくとも80:20くらいの割合だという意見で一致がみられる。

さらに、Board Game Arenaによって、特定のプレイヤーの得点を閲覧することができる。そして、ゲームデザイナーは、等級に分けられた(rated, ※おそらくアリーナモードのこと)ゲームをプレイしていないようだが、それらの平均的なスコアは単純に高くない。これが意味するのは、序盤に得点を稼ごうとする戦略を用いても、高い得点を獲得してないということだ。

エンジン構築戦略か、序盤の得点獲得戦略かの問題にとどまらず、「クランズ・オブ・カレドニア」は、スタート時の非対称な氏族能力の点でもバランスが悪い。それらの能力は、同等の強さであるとはいい難いね。

この時点で、私が一般的なゲームバランスに関する議論から「クランズ・オブ・カレドニア」及びそのデザイナーへのヘイトに話を逸らしているように聞こえるだろう。ただ、そんなことは本意とは完全にかけ離れたものだと断言するよ。私はこのゲームが大好きだし、このゲームのデザイナーは寛容さと革新性のお手本だと思うね。

彼は、非対称能力というのがバランスを取るのが難しいと気づいたんだ。そして、それを補てんするために、「マルコポーロの旅路」で私が最初に見かけた、手番順とは逆に固有能力をドラフトするという方法を導入した(そのゲームにおけるバランスの悪さに関する詳細は後ほど。)。それに、経験豊富なプレイヤーのために、最初に行うために勝利点を入札して自分の氏族を選ぶというバリアントを取り入れた(「クランズ・オブ・カレドニア」の相当部分において着想を与えた作品である「テラミスティカ」において最初に発明されたものだ。)。

さらに、エンジン構築戦略がかなり有利になっているとしても、それでもなお、このゲームは上等で鋭い戦術ゲームであることに変わりはない。ただ、他のゲームほど戦略的に深いというわけではないけどね。全てのゲームが、魅了させるために、完璧にバランスの取れた大規模な戦略を5つ用意する必要はない。

そして、これが私が主要なポイントとして言いたかったことだ。つまり、ゲームにバランスの問題があるからといって、そのゲームが楽しくないことにはならない。ただ、完全にバランスが取れてないというだけだ。

「マルコポーロの旅路」

クレジット: Jesus A. Perez

おそらく私がオールタイムでお気に入りのユーロゲームである「マルコポーロの旅路」に話を戻そう。このゲームには、「クランズ・オブ・カレドニア」よりも更に強力な非対称能力がある。要は、自分自身のダイスの目を選べるとか、他の人がリソースを獲得するたびに無料のリソースをもらえるとかといったぶっ壊れ能力だ。この能力は非常に強力で、大きく異なっているので、ゲームとして破綻していない(aren't completely out of whack)のは小さな奇跡だ。

しかし、これらの能力はバランスが取れているわけではない。経験豊富なプレイヤーは全員、ある能力が他の能力よりも優れていることがわかっている。特に、ボードのセットアップによってはね。

そして、全体から見て残りの部分ですらバランスが取れていない。上手なプレイヤーは、他のすべての条件が同一であれば、アジアを横断する北側の旅の経路が、南側の経路よりもはるかに効率的であるとわかっている。スタート時のプレイヤーが望んでいるのは、北側の経路を利用することができるようになる最終的な目的地カードが手に入ることだよね。

そして、このことは些細な欠陥であるが、ゲームを台無しにするものではない。良いゲームは、避けられないバランスの問題を乗り越えるほどの上質さと多様性を持ち合わせている。

そう、避けようがないってことだ。ゲームデザイナーは神ではない。完全無欠な存在ではないのだ。「クランズ・オブ・カレドニア」のデザイナーは(※BGA上の)上位プレイヤーほど利口じゃないとコケにするように聞こえたかもしれないが、その反面、なぜ彼(※「クランズ・オブ・カレドニア」のデザイナー)は、上位プレイヤーと同じくらい利口でなければならないのかい? 素晴らしいゲームプレイヤーになることと素晴らしいゲームデザイナーになることはあまりにも全く異なる能力だ。なぜ、私たちはゲームデザイナーに対してエリートプレイヤーでもあることを求めるんだろうか? そんなことはあり得ないはずなのに。素晴らしいプレイヤーならば素晴らしいゲームをデザインするだろうと仮定するのと同じことだ。そんな仮定には失望する可能性が高いよな。

そして、デザイナーとデベロップが完全無欠ではないので、不可避的に欠陥が生じる。

しかし、優れたテストプレイのプロセスによって、あらゆるバランスの問題が取り除かれるべきなのだろうか。

そんなことはないね。

確かに、最も明白にわかるゲームをぶっ壊してしまう問題というのは捉えるべきだろう。しかし、大規模で最適化され、系統立ったテストプレイを実施したとしても、そのゲームを購入してプレイする全市民のサンプル数に近い結果を得ることはできないだろう。

"なぜ、この問題。テストプレイで発見できなかったんだ?"と私たちは大声でわめく。この理由は、ほとんどの欠陥というのは、後から振り返ってみて初めて明白になるものだからね。

そして、さらに、デザイナーの中にはゲームバランスを極めて重大な問題としてみていない人もいる。Jamie Stegmaierが、「タペストリー ~文明の錦の御旗~」のカードについてバランスがとれてないという問題があると主張する批評をどう思うかと尋ねられた時、彼は、声高にゲームバランスを擁護しなかった。彼は、単純に、"「タペストリー ~文明の錦の御旗~」は、大胆で変化に富み、予測不可能なワクワクするプレイ体験を生み出す目的でデザインされている。毎回、完全にバランスが取れているわけではない。"という趣旨の発言をした。

私は、まぁ、「タペストリー ~文明の錦の御旗~」のいくつかのカードに関してぼんやりと確認しているところではけれども、Stegmaierにも一理ある。バランスは、ゲームの最終目標ではない。楽しさこそが最終目標なわけだ。ゲームは完全にバランスが取れたものになり得るが、めちゃくちゃ不毛で退屈なものにもなり得る。

西フランク王国の聖騎士

バランスの問題を抱えているとして一部で批判されている最近の重量級のユーロゲームは、「西フランク王国の聖騎士」である。このゲームでは、バランスの問題が恣意的なランダム性の形をとっていた。バランスが悪いこととランダム性というのは同じことではないけれど、不公平だと認識される範囲では交差する。重量級ゲームにおけるあまりにも緩和することができないランダム性は、バランスの悪さが不公平に見えるのとまさに同じく、本当に不公平に見える。

「西フランク王国の聖騎士」においては、このランダム性が、3ラウンド目になるまで完全には公開されない、ゲーム終了時までに達成する目標という形を採用している。もし、その目標が公開される前に、あるプレイヤーが偶然にもその目標を達成しようとしていて、自分はそうではなかった場合には、自分にとって最悪な状況となるよね。

このゲームにはもっと強いランダム性がある。それは、ランダムな順序で、各ラウンドにおいて特殊能力をもたらす自分の聖騎士(Paladins)が出現するということだ。聖騎士の中には、このゲームの序盤に驚異的な力を発揮するものもある。もし、対戦相手が序盤にこういった聖騎士を手に入れて、自分が手に入れられなかった場合には、自分は公平ではない形で不利となる。

なぜこんな形のランダム性が存在するのかとGarphill Gamesが尋ねられた時、彼らの答えは有意義なものだった(telling)。「当初、こんな形のランダム性はなかったが、ゲームがあまりにも決まりきった手ばかりになって反復的であると思われたからだ。」というものだった。全プレイヤーが、同じ目標を目指すか、同じ聖騎士を用いるかのどちらかとなってゲームの開始時に同じことをしていたわけだ。変化に富むからこそ、人生ってのは楽しいものになるんだ(Variety is the spice of life)。

そして、私はこれに与している。そういったランダム性に内在する不公平さ/バランスの悪さというのは、即興で対応することを迫られて厳しい意思決定をしなければならないという面白い状況を生み出してくれる。

同時に、それでもなお、ゲームバランスというのは重要な話だ。公平性も大事だ。これらが重要でないかのように取り繕うことや、もし、デザイナーである自分がバランスを取らないのであれば、プレイヤー自身がゲームのバランスを取るかのように見せかけることは、反対方向に進みすぎている(way too far in the other direction, ※逆行しすぎだ)。私からしてみれば、Cole Wehrleは、私が楽しめない形で、公平さに係るデザイン理念を体現している。彼が主張するのは、不公平さというのは、苛立たしさや恨みのように、面白いゲーム体験を生み出しているとのことだ。

予測不可能性や即興性、これらは、バランスの悪さとランダム性が生み出す良い結果だ。苛立たしさや恨みというのは、そういうわけではないよな。私は、人それぞれだと思うけどね。

じゃあ、長くなったけど、プレイヤーの方に話を戻そうか。デザイナーが陥りやすい誤りを指摘するのに十分な時間を費やしてきたね。けど、プレイヤーの大部分はデザイナーよりどこか優れてるところがあるのかね? いいや、プレイヤーのほうが、それ以上にはるかに悪いね。デザイナーが天才的なプレイヤーでないとしても、それでも、デザイナーの経験というのは、大抵、1回の悪いゲーム体験をしてゲームのバランスが取れてないって大っぴらに言うプレイヤーよりかは、はるかに優れたものだ。不十分なテストプレイでも、1回だけプレイしましたよりかははるかに有益なものだ。

「クランズ・オブ・カレドニア」に話を戻すと、氏族の中にはとびきり強いものがあると言ったけれど、特定の能力を用いるのが最も優れているかがわかるのに、少なくとも、ニ、三十回はプレイする必要があった。私の意見は更新されていった(have evloved)。初めに強いなと思った氏族の中には、今でも強いと感じるものはあるし、私の評価が段々と能力が弱いなぁと思っていくようになった氏族もある。こういったことは、氏族の能力が勝手気ままに決められた(arbitrary)ものであることを意味しない。特定の状況において特定の能力を手に入れるために、上手なプレイヤーが20勝利点を入札するのを何回か目撃することがあるだろう。しかし、こういったことは、一、二回のプレイしかしてないくせに、優越感にひたってあーだこーだ言う奴とは訳が違う(※意訳している)。

結局のところ、"このゲームはバランスが取れているか?"よりも良い質問があるはずだね。

例えば、"このゲームは楽しい?"ってほうが、今日の議論に関連するものなりそうだね。ゲームのある要素にイライラしてしまったり、制限されているなと思ったり、興味をもてなかったりして、ゲームをもう一度やりたいとは思わないかもしれない。けれども、バランスの観点やそれがぶっ壊れているかという観点からすると、その判断っていうのは、少し差し控えるべきだろうね。

以上

※本記事のようなゲームバランスに関する記事としては、以下のものがある。

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