♯13 耳管開放症という障害。

半年足らずでの引っ越し

小学校に上がる頃に大きなマンションに引っ越したのも束の間、結局四人での暮らしなんて上手くいくはずもなく。
ここに住んだのは大体半年。
真冬ではなかったと思う、14階のエレベーターホールでしゃがみ込んだ母が私の両手を握り話すその格好はまだ秋の服だったからよく覚えている。

もうお母さんはここに住めない、一緒に来る?
それともここで二人と住む?
お母さんはもうお金がないから、もしかしたらお腹が減っちゃうかもしれない。
あまり食べられないかもしれない。
どうする?

この言葉はきっと生涯忘れないだろう。
母と犬との三人の暮らしが始まった。

新しい家は小さなワンルーム。
私は病院か、家に引きこもっているか。
熱を出しているか、犬と遊んでいるか。
ただ今までと違う事は基本家に一人で、夜は前に一緒に住んでいた男の人と一緒に二人でご飯を食べていた。

具合が悪くなって夜間救急に運ばれた時も男の人が運転してくれたり、なんだかんだ引っ越してからちょっとだけこの人はいたと思う。
子供の記憶なんて定かじゃないけれど。

そのうち気づいた時には違う関西の男の人だったし、知らない間に前の男の人は疎遠になってた。
今現在は風の噂を一、二回聞いた程度だ。
もうこれっきり会うことは無かった。

今これを書いていてびっくりしたのが、私はこの人の名前も年齢も知らない。
夢ではない、長いこと一緒に住んでいた。
この人の嫁の家にも泊まりに行っていたし、娘も泊まりに来ていた。
大人になってからわかるクレイジーなお話。

あぁ話がいつも逸れてしまう。
実はここから四年生まで今ままで以上に本当によくない育ち方と過ごし方をした。
その関西の人が本当によくない人だったから。
簡単に塀の奥に入れる資格を持っていた人間だった。

私個人が変わった事といえば四年生から学校に通い始めた事。

当時の担任が私の耳に理解があり、家庭環境もよく知っていた。
言葉が遅くても待ってる人で朝は家のベッドまで迎えにきていた。

勉強もできないのが当たり前だ、やれば出来るお前は賢い子なんだぞ。
たくさん笑いなさい、必ず良いことがあるから。
先生の声は煩いか?大丈夫か?体育はもうやんなくていい!
その代わり学校終わったらお前の家まで先生と競争しよう。

掛け算を一問解いただけでまるで金メダルを取ったかのように大袈裟にリアクションをする人だった。

実際の金八先生を現実化したもの。
あのまま、もしくはそれ以上の熱血教師。
とにかく生徒からも保護者からも人気だった、クラスの子に小言を言われることはあるものの酷い仕打ちはもうなかったし、話さなくても声が小さくても怒られる事もなかった。

ちょうどその頃くらいに耳鼻科は一人で行くようになっていた。
バスに乗っていれば着くし帰りも耳鼻科前からバスが出ている。

母は仕事、もしくは遊びに行っていた。
料理が大好きだった母は出来立てではなくともご飯は必ず作ってくれるし、お金がない中遊びにも連れてってくれたし、それこそサンタクロースにお願いしたゲームキューブだって届いたりした。

だけれど母は親であり女だったからこそ、ここから何年も女を優先させてしまっていた。
別に悪い事じゃない。
まぁ見る目があればの話だが。

関西の男の人が来てから私は声を荒げる事や、女の子らしくない言葉だが取っ組み合いやもみ合いが多かった。
そんな時たまに自分の声を発した瞬間全く何も、本当に何も聞こえなくなる瞬間が出てくるようになった。

一瞬聞こえて、また無音で、鼻を啜れば解決していた耳の不調と全く違う。
痛いわけじゃない、うるさいわけでもない。

今でこそ知識も度胸もついて、説明も話もある程度出来る人間になれたが、当時の私はこのままを話してしまっていた。


先生、聞こえない時があるの。
声を出すと音が止まるの。
で、聞こえるようになるの。
けど大きな声を出すと何も聞こえないの。

先生は私にキチガイと言った。

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