第1回ショートショート人狼投稿作


 去年の秋に開催された「ショートショート人狼」に投稿した作品です。ショートショート人狼とは、作者が適当な偽名を付けて投稿した作品で文集を作り、みんなでああでもないこうでもないとわさわさしながら作品の感想を言ったり、作者を当てたりするというぷんさん発案の企画であります。
 第1回のお題は「11月」。ショートショート人狼という企画名に反してショートショートの体裁を守れていない、普通の掌編になってしまってはいますが、よければお読みくださいませ。


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11月の幸福論       

              

 缶ビールを開けた時のような、間が抜けた音と共に電車のドアが開く。ドアから吐き出されて来る人の群れは、その喩えを更に引っ張るなら缶から溢れたビールとその泡だろうか。だとしたら、きっとそのビールはすごく不味い。帰路に就く人は皆、コートで不格好に膨れた身体を引き摺り、疲れ切った顔をしているから。
 わたしだって煮詰まり放題の残業上がりだから、さぞかし疲れた顔になっているに違いない。結局、わたしもその不味いビールの一部だ。そんなことを考えながら、降車の波が一段落したのを見計らって電車に乗り込む。車内は暖房と乗客の体温で生ぬるく、外の寒さとの落差が神経を逆撫でする。
 本当に疲れているんです。席に座って、少しでいいから休みたいのです。
 フルボリュームの視線と表情でそう宣言しながら左右を見回して、ひとつだけ空いている席を見つけた。断固たる歩調でもってその席の前まで移動し、何とか座席に滑り込む。
 この一連の行動で、女を四割くらい捨ててしまった気がする。けれど、今はそんなことに構っていられないくらい、身体も頭もしんどい。
 本当に座れてよかった、最近はこんなことで嬉しくなってしまう。だって、もう32歳なのだ。そう思った途端、身体が軋む音が聞こえた気がした。
少しどころではなく、切ない。
 唐突に、目の前で甲高い声が聞こえた。視線を上げると、結構可愛いけれどもかなり化粧は派手な、大学生風の女の子がスマホを相手に話し始めたところだった。
 通話の相手は男友達みたいだ。彼氏、バイト、ライヴ、合コン、単位、わざわざ今電車の中でするような話でもないのに、周りを気にするでもなく耳障りな声で喋り続けている。はっきり言って不愉快だ。
 女子大生は元気だよな、と吐き捨てるように口の中で呟いて、数秒後に、気付いた。
 ああ、そうか。わたしは、この子がすごく羨ましいと思ってる。わたしだって学生の頃は似たような感じだったはず。自分のことで手一杯で、楽しいことがたくさんあって、朝までカラオケやって9時からバイトに行った。疲れなんてほとんど感じなかった。それなのに。
 数年前、こんな自分になりたいと思っていただろうか。
 今、どうしてこんなにくたびれてるんだろう。
 数年後、わたしはどうなってしまうんだろうか。
 錐揉み落下していきそうな思考。遮断しないと、と思った瞬間、女の子の後ろの窓に自分の顔が映りそうになって、慌てて目を閉じた。今、自分の顔を見ては駄目だ。シャットアウト。

 目を瞑り、脚をヒーターで暖められながら、単調で終わりのないリズムにがたんごとんと揺られていると、うつらうつらと意識が薄れてゆく。眠りかけた頃に駅に着き、車中放送ではっと目が覚める。他の乗客もわたしと大差ない。ずっとスマホに向かってハイテンションで喋り続けている女の子以外は、毎晩ほとんど変わらない風景。何もかもがいつもと同じ。
 そうこうしているうちに、家の最寄りまであと3駅のところまで来た。ドアが開き、夜の寒気が一瞬車内に流れ込む。車内に吸い込まれてきた人たちをぼんやり眺めていると、その中に一人のお婆さんを見つけた。年のころなら70過ぎくらい、背筋がしゃんと伸びていて、しっかりした歩調。周りの男たちと頭一つ半は違う、かなり小柄なお婆さんだ。今はもうしわくちゃだけれど、若い頃はかなりの美人さんだったんだろうなと思わせる顔立ち。
 お婆さんは車内を見回して席を探しているけれど、周りの席はもう空いていない。誰も、彼女に席を譲る様子はない。それどころか、座っている人の大部分が示し合わせたみたいにお婆さんから目を逸らしたのがはっきりと解った。
 ああもう。
 わたしだって、いい加減疲れてるんだ。ここで席を立ってしまうと、駅から自転車を漕いで家に帰る体力も気力もなくなってしまいそう。本当に疲れてるんだよ。
 それでも。
 それでも、自分がこういう厭らしい構図の一部になってしまうのは、我慢ならない。
 深刻な疲れとよく分からない不機嫌さを何とか隠して立ち上がり、良かったらどうぞ、と彼女に席を薦めた。
 すると、お婆さんは正面からわたしの目を見つめて、
「ありがとう」
と一言、良く通る声でそう言ったのだった。
「あ、いえ。その、どうも」
 何故だか視線を受け止めきれず、間が抜けた答えを返すのがやっとだった。顔が赤くなっていくのを自覚する。
 そんなわたしを見て、お婆さんは微笑んでから柔らかな物腰で席に腰を下ろした。そういう扱いを受ける権利があることを、ちゃんと知っている態度。彼女のその仕草と笑顔はごく普通のものだったけれど、わたしにはとても綺麗に見えた。重ねた年月の上に立つ自分をそのままに認める、穏やかな威厳。

 ……ずっと、ずっと続く今日と明日の、その次の日の朝。三毛猫の喉を撫でたら、にゃあと鳴いた。窓から差し込む、麗らかな陽射し。

 そんなイメージが頭をよぎったのは一瞬だった。さっきの失態をカバーするために改めてお婆さんに笑みを返し、それから見栄でも切るみたいにざざっと鋭く周囲を見回す。座っている人たちは居心地が悪そうで、今度はわたしから顔を逸らしているのが妙におかしい。
 女の子は相変わらずスマホに向かって何やらまくしたてているが、もう気にならない。気にしてなんかいられない。
 彼女に対する苛立ちや嫉妬も消えた。あれはあれ、今は今だ。
 吊り革に掴まり、脚を開いてしっかり立つ。自分の顔が、窓に映る。さっきは目を背けてしまったけれど、今度は見ることができた。
 最寄り駅に着いた。ドアに向かう波に混ざろうとした時、お婆さんが声をかけてきた。
「本当にありがとうね。元気なふりをしてたんだけど結構しんどくって、助かっちゃった」
 その笑顔はさっきの印象とはまた違って、なんだか可愛らしかった。

 電車を降りる。晩秋の夜はもう本当に寒い。人の群れを縫って改札を抜け、駐輪場に辿り着く。バッグから自転車の鍵を取り出して、鍵を外し、手袋を嵌め、コートの裾をばさりと翻し、わたしはサドルに跨った。
 家に帰ったら冷えたビールで晩酌してから、部屋を暖かくしてゆっくり休もう。
 明日もどうにかこうにか生き延びて、家に帰ろう。
 それを繰り返して繰り返し、繰り返し繰り返して。
 いつかわたしも、電車の席を譲って貰うのだ。
 左足に力を込め、ペダルを蹴る。

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 とまあ、こんな感じのものを投稿しました。この時はどうしても締め切りまでに書けず、仕方がないので23歳くらいの頃に書いたものに手を加えて提出する、というインチキをしています。文体がなんかめんどくさいのはそのせいです。今はこうした文体で書くことは多分できないだろうなあ。
 ともあれ。お読みいただきまして、ありがとうございました。


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