見出し画像

我が舌の在り処

 2020年10月某日のこと。大きめの〆切を、少々のトラブルの末に乗り越えた私は、その日の夕食を作る元気が湧かず、しかしランナーズハイで虚ろな元気だけ持っている状態で、それゆえに友人の櫻井(仮称)を夕食に誘ったのでした。
 櫻井も仕事の夜勤がひと山終わり、何か元気が出るものを食べたいということで合意。2人でもつ鍋を食べに行くことにしました。

 櫻井の自宅に案内のチラシが入っていたという某居酒屋で、もつ鍋の食べ放題メニューが期間限定で登場したとの情報を受け、我々は埼玉県内の某駅で合流。互いに激務で楽しい何かしらの新たなインプットをしていないことが分かっていたため、共通の友人の話題や、麻生タローが小泉ジュンイチローをもつ鍋に誘う麻雀漫画の話題で場を温めながらいざお店へ。駅から徒歩3分ほどの好立地でしたが、このご時勢でお客は疎ら。それを打破するための策でのもつ鍋食べ放題ですので、お店も目論見通り。我々もスムーズな食事で目論見通りです。

 コースを伝えると、アルバイトの学生さん風な若い方が、少し戸惑いつつも対応。彼が注文を取って奥へ引いた際、櫻井がボソリ。
「チラシ入ってたの今日だから、もしかしたら俺らがこのコース最初の客かも知れないな」
何がどうしてそうなるのか不明ですがなんとなくメデタイ気分になる我々。

 数日間連続で夜間対応を強いられた櫻井と、1週間あまり各日2~3時間の仮眠でどうにかしていた私は、2人とも『アルコールを入れたら家まで帰れない!!』と察してドリンクは烏龍茶。
 いざ鍋とカセットコンロが届き、点火して乾杯!この秋~冬で行きたい旅行先と日程を相談(行けるとは言ってない)しながら、肉に火が通るのを待ちます。スープが沸騰し湯気が昇り、もつに火が通ったのを見計らい、実食!
 しなりとしつつシャキシャキの歯応えの残る野菜と、プルプルのもつを頬張る。そして。

(あれ?味しなくね?)

 豚しゃぶか湯豆腐の豆腐を口にダイレクトアタックしたような、その存在を物理的に感知できるが食物として認識できない、異物感というか不快感というか、何にせよ好ましくない感覚が口に広がる。そして込み上げるのは焦り。日々の暮らしの喜び、その大部分を食事に依っている私は、自らの舌が味を感知しなくなったことに対して尋常でない焦りを覚えます。
 正面に座す友人、櫻井に目をやると、彼は変わらずにこやかにしゃべりながら、モリモリと食べています。
 いよいよ自分の味覚障害を強く意識する私。
(発症後72時間で治療を始めないといけないんだっけ?それは突発性難聴か。後で調べなきゃ。それにしても原因は……やはり連日の寝不足か。それとも気付かぬ間にコロナに罹患?どちらにせよ大変マズい)
お鍋による体温上昇とは明確に別種の汗が背中を伝います。
 正直、この時点でだいぶ食欲が減退してしまっていたのですが、代金分は食べたかったのとまだ自分の舌を信じたかったのがあり、スープをゆっくりを口へ。
(感じる。もつの脂の甘味、キャベツの苦みが溶けだしている。そして何より烏龍茶の味は明確にしている!)
一抹の光を見出しておかわりを注文。その際に店員さんへひとつ質問を投げました。
「スープの味を少し濃くしてもらうって可能です?」
若い店員さんは即答を控えて厨房へ。そして残る櫻井と2人で
「やっぱ味薄いよね?」
「だよね?ちょっと塩振りたい」
みたいな会話をして待っていると、厨房から少々お年を召した、貫禄ある方がやってきました。

「お鍋ごと替えさせていただいてもよろしいですか?」

頷き、新たな鍋がコンロの上へ。見ればスープが色から違う。
 沸騰したそれを口にすると、うまい!!

 そこからは櫻井と爆笑でした。
 結局は新人店員さんのミスでスープに調味料が0だったということで、我々の舌は2人とも正常だったのですが、2人が2人とも自分の体が異常をきたしても納得できてしまう生活を続けていたために己を信じられなかったというお話でした。櫻井も全く同じ思考をし、私が普通に食べているのを見て自分の舌が異常だと思ったとか。それでご飯を噛みデンプンの甘味を感じ取ろうとしてモグモグやってたら、それを見た私が自分の舌が異常だと思い……そんなループが発生していたのです。

 皆さんも、繁忙期や勝負所であっても、無理をし過ぎないようご自愛ください。

 そして、もつ鍋は美味いゾ!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?