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二番打者一塁手、背番号無し。

2023年。プロ野球は阪神タイガースが38年振りに悲願の日本一を達成し、幕を下ろした。
阪神タイガース。球団の歴史は巨人に次いで長い。1935年「大阪タイガース」として甲子園で産声を上げた阪神は、巨人と頂点の座を争い続ける。いつしかその対戦は伝統の一戦と呼ばれ、名勝負を幾多も繰り広げた。歴代で阪神に在籍した選手の数は800を超える。一人一人が想いや背番号を背負い、グラウンドに立ち、そして時代を築いてきたのだ。
しかしその800人の中でたった1人だけ、背番号を一度も背負わずに退団した選手がいる。その選手こそ、今回の主人公。一度耳にしたら忘れない、変わった名前の持ち主だった。

その選手が小学生の頃。成績優秀者として、学校内で表彰された日の事だ。
「賞状 ツジ ゲンベエ殿」
名前が読まれると、生徒達がクスクス笑ったり、ざわざわとする。当時でも珍しい名前であった。明るく社交的で真っ直ぐな性格。勉学にも優れ、野球がとびきり上手い。海草中では「ゲンベエ」の愛称で親しまれ、皆から愛される人気者だったという。
辻源兵衛。1942年夏、文部省主催のため公式記録には残らない「幻の甲子園」に出場し、ベスト4。
そして1944年、藤村富美男に直々にスカウトされ阪神軍に入団。海草中を退学した。
背番号は無かった。軍部から「敵国の匂いがする」という理不尽な理由で、このシーズンは全ての選手が背番号を着用せずにプレーした。ユニフォームはカーキの国防色に。野球帽は戦闘帽に変更され、試合前には手榴弾投げのデモンストレーション。そして続々出征する選手達。もう手詰まりだった。戦局悪化や選手不足に伴い8月でシーズンが打ち切りに。気付けば阪神は独走で優勝していた。
そのチームの中で辻は、18歳ながらレギュラーとしてプレー。辻の最終的な成績は、打率.241、本塁打0、6打点。前半こそ打撃に苦しんだものの、後半は打率.298、出塁率は.429を記録。そして何より、辻は内外野守れるユーティリティプレイヤーとして重宝された。出征が相次ぎ、僅か15人しか選手がいなかったため尚更だ。時にはマウンドにも上がり、チームの危機を度々救う。最終的には「二番打者一塁手」として定着した。軍部の監視もあり、この頃は「ストライク」や「アウト」等の英語さえ使う事が許されず、アナウンスもどこか窮屈で、ぎこちなくなっていた。
辻はこのシーズン終了後に陸軍に出征。翌年8月15日、ポツダム宣言受諾により戦争が終わるも、辻の安否はその時まだ分からなかった。
しばらくして、辻の戦死公報が届く。
「昭和20年1月12日、仏領インドシナのサンジャック沖で戦死」
そう書かれた紙だけが、骨壺の中に寂しく横たわっていた。
1945年1月12日、サンジャック沖。辻が乗り込んだ輸送船は、魚雷攻撃により沈没した。辻は火の海を懸命に泳ぎ続け、やっと思いで救助される。しかし救助された輸送船も魚雷により爆発し、辻は海の藻屑と消えた。まだ19歳であった。
戦死の公報を受け取った祖母は、庭の畑をナタで荒らしに荒らしたという。「罰が当たるがな」と周囲に制止されるも「罰が当たって死にたいんや」と言って聞かなかった。こんな事をしても、源兵衛は戻って来ない。祖母は膝をついて泣き崩れた。
戦後間も無く阪神は、ダイナマイト打線と呼ばれる強力打線を形成した。当然、戦死した辻の名前はそのオーダーには無い。だが、もし辻が生還し、阪神に復帰出来ていたら。その名前は間違いなくオーダーに刻まれていただろう。
「2番ファースト、辻源兵衛。背番号…」
阪神の歴史で唯一、背番号をつけずに退団した選手。このアナウンスを聞ける事は、遂に一度も無かった。

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