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忘れられた「バカ肩」の元祖

「バカ肩」。
糸井か、羽生田か、それとも。いずれにしても、今でも耳にする言葉である。常識外れな肩の強さを表す為に用いられる異名だ。聞き慣れた、と言うには少し足りないかもしれないが。
「安打製造機」や「アーチスト」など、異名には元祖が存在する。それは「バカ肩」も同じ。
その異名の歴史は古い。誕生したのは今から約85年前、一人の選手の記憶に遡る。
1938年秋。堺大浜球場で日新商と興国商は試合をしていた。堺大浜球場は、南海が当時よく使用していた球場だが、練習場として使っているばかりでは収入が見込めない。そこで、度々中学校(旧制)に貸して入場料を得ていたのである。
当然その間、南海は練習が出来ない。当時監督の高須と主将代理の鈴木は仕方なく、ネット裏から雑談を交ぜ、ぼんやりと遠い視線で試合を眺めていた。
日新商の走者が出塁した。
「あのランナー貰おうぜ」
冗談交じりで監督の高須は笑う。その時だった。二人の視線は、一人の選手に釘付けとなった。
「あの捕手、いい身体してますね」
野手陣に声をかける為に立ち上がった、興国商の捕手。その捕手の見せ場は、すぐにやって来る。
4球目、ランナーがスタートした。盗塁だ。完璧なスタート。高須と鈴木の二人は、走者のセーフを間も無く確信した。
「危ない!」
高須は思わず叫んだ。盗塁を刺すために捕手から放られた球が、投手の肩をかすめたのである。だが、球は勢いを失う事無く、ノーバウンドで遊撃手のグラブに一瞬で到達した。アウトだ。まだ走者は二塁ベースの3、4歩手前にいた。
「無茶な肩してるね。こんなバカ肩見た事無いよ、鈴木君」
「監督さん、上手い事言いますね。本当にバカ肩ですよ」
「元祖バカ肩」、誕生の瞬間である。
この捕手を何としても入団させよう。二人はそう誓った。
バカ肩捕手の名は、国久松一。
国久は翌1939年、南海に入団。当然捕手として入団したが、鶴岡一人の希望で二塁手に転向した。二塁手となった国久は、鶴岡からマンツーマンで指導を受け、随所でバカ肩を発揮。サード鶴岡との高度な併殺を度々完成させ、チームを引っ張った。遠投は127mを記録した、という話もある。
国久はその後、1942年シーズン終了後に兵役へ。そして翌年、ビルマ戦線にて還らぬ人となった。
現役通算4年間、最初から最後までレギュラーとして活躍し続けた。376試合出場、324安打、打率.226、91盗塁。肩だけでなく、俊足としても鳴らした。この時代の状況を考えたら、打撃も悪いわけではない。
戦後もし球界に復帰する事が出来ていたら、どの様な数字を残していただろうか。その様な事は分かる筈もない。忘れられた「バカ肩」の元祖。異名だけが、今後も何処かの野球人に受け継がれ、そして静かに生き続けるだろう。

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