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【要約】ヒューマニティーズ 教育学

ヒューマニティーズ 教育学
広田照幸 (2009)

要約

1. 教育論から教育学へ

教育学というのは、とかく軽視されがちな学問である。しかし、その重要性を甘く見てはいけない。教育学の価値は、実用性(例:教師がすぐ使えるようなノウハウ)のみにあるのではないからである。

教育の定義は様々あるが、学問として教育を語る際に大事なのは、そこに価値判断を入れないということである。なるべく客観的に、ドライな定義をすることが大切である。本書では、「教育とは、誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすること」(9)と定義する。

近代教育の特徴の一つは、教育が社会変革とつながっていることである。言い換えると、子ども達を教育することで、社会を変えようという発想である。この発想と一緒に、学校制度が普及拡大していく。
近代に学校制度が普及拡大したのには3つの大きな背景があった。

① 印刷技術が向上したことにより、文字文化が広まり、識字率が向上した。
② 身分社会から階級社会への移行。近代以前は、人々は基本的に身分(生まれ)によって地位・職業・生き方が固定されていたが、近代化により様々な制度や規範が変更されたり撤廃されたりすることで、人々は身分にとらわれず地位や職業の移動が可能となった。その階級移動の手段として学校が使われた。
③ 国民国家の誕生。学校は、人々に共通の価値観を学ばせることにより国民を作るのに役立った。

19世紀初め頃(ヘルバルトの頃)から、「教育学」が必要とされるようになってくる。その理由はいくつかあり、一つは、学校制度が拡大し大量の教師が生まれたことにより、その権威付けが必要となったこと。教育内容が複雑化・細分化したことで、その組織化・体系化が必要になったことなどが挙げられる。
20世紀に入ると、教育学は実証科学(主に心理学)の手法を取り入れるようになる。しかし、実証科学的な教育学を実践に移す際には、問題も多かった(例:知能テストと下層の排除など)。


2. 実践的教育学と教育科学

教育学には大まかに「実践的教育学」と「教育科学」という2つの種類がある。
「実践的教育学」とは、教育者がどんな教育をすればいいかについて示唆やアドバイスを与える学問である。これは自然科学とは違い、単に情報提供を目的とするだけではなく、そこには当為(あるべき・なすべき)を伴った価値観も入り込む。そのため実践的教育学には、物理法則のような絶対的な正しさがないという危うさもある。
実践的教育学の研究には、常に推論、思い込み、事実誤認の可能性がある。よってその言説は、「正しい/正しくない」でなく、「より正しそう」というように語られる(べきである)。

「教育科学」が目指すのは、教育行為をなるべく客観的で科学的な方法・マナーによって分析、研究をすることである。実践的教育学よりは確実性や客観性は高いが、限界もある。

① 単に客観的な分析と記述だけでは「どんな教育がより望ましいのか」は導くことができない。そこには価値判断が必要。
② 認識手続きの限定性。教育行為を自然科学のように完全に管理統制して実験したり観察したりすることはできない。100%客観的な認識や分析はない。
③ 科学的な手法で得られた知見でも、それを実践に移す際には様々な現実的要素が影響するため、常に一定の結果が出るわけではない。

つまり実践的教育学と教育科学は互いに補い合うものであり、車の両輪のようにどちらも欠けてはいけない。


3. 教育の成功と失敗

教育という営みはその定義上また構造上、その結果が一定になることはない。換言すると、子どもを教育したからと言って、その子が望み通りの反応をしたり、思った通りに変化したりする保証はない。なぜならば、教育者(教師)と被教育者(子ども)は別の人格を持った存在であり、別の精神・心的システムをもっているため、教師からのアプローチは結局すべて外部環境に過ぎない。よってそこから何を学ぶかは完全に子どもに依存しているからである。つまり、教育には成功が保証されることはない。どんなにスキルのある誠実な教師であっても、教育の失敗は避けられないということ。

教育という営みが失敗を前提にしているとは言え、いかなる時でも子ども(というか人間全般)は学びたがっている、あるいは学んでいる(学習するという性質を失わない)と言える。この、子どもの「学びたい」と、教師の「教えたい」のギャップを埋めるために――教育の成功の確度をあげるために――教育のテクノロジー、教授法が編み出され発展してきた。

歴史をたどると、まず中世からルネッサンス期までは「叱る」というのがテクノロジーであった。子どもに鞭を打って、とにかくムリヤリやらせるということ。次は「競争」というテクノロジーである。よくできた子どもに褒美や称賛を与え、競争心を駆り立てることで、教師の思うとおりの学習をさせようというのである。
その後次第に、子どもの実態に目を向けた教授法が出てくる。コメニウス、ルソー、ペスタロッチなどが「自然」を重視し、なるべく「子どもの発達に自然に沿うように、段階的に」教育をすべきという考えが広まっていった。
こうした流れを、科学的に学問としてまとめようとしたのがヘルバルトであり、その理論は彼の弟子たちのリメイクなどを経て、今日まで影響力を持っている。

19世紀までに発展した、もう一つの重要なテクノロジーは一斉教授である。一斉教授は、子どもを一人ひとり順番に教授するのではなく、「集団」として捉えることでその効率性を高めようとするテクノロジーであった。

教授法はこのように改良を試みられてきたが、19世紀までの教育のテクノロジーは、総じて子どもを受動的で画一的な存在としか見ていないなどの欠点があった。その反動として、20世紀にはデューイなどの影響のもと新教育運動と呼ばれる、子どもの自発性や能動性を重視した教授法が広まった。
現在でも、ペスタロッチ・ヘルバルトの流れからの系統的な教授法と、デューイの自発能動的な教授法の二つが支配的と言えるだろう。

こうした教育学・教授法は現実の教育に影響を与えてきた/与えている。しかしこうしたものは単に教育学者の頭の中から出てきたのではない。多くの教育実践から、または教育の現実に対応して発生した。教育学は、現実の教育の分析や解釈を通じてより良い教育に資するという役目を果たしている(果たすべきである)。


4. この世界に対して教育がなしうること

今の学校には問題がたくさんある。それらを解決しようとするのが教育学であるのは間違いないが、学校における種々の問題が解決された後、いったい学校はどこに向かい、何を目指すのだろうか。その目的について、教育学は何を語れるのだろうか?
物事には、目的と目標がある。目的というのは、「何のために」それがあるのか/それをするのか、ということである。目標というのは、目的を達成するために到達すべき通過点を定めたものである。学校教育には無数の目標がある。しかし、教育の目的については十分に語られていない。
ある人は、教育の目的を「子どもに内在する可能性を最大限引き出すことである」と言う。一見それっぽく聞こえるが、実はこれは教育の目的にはならない。「何のために」子どもの可能性を引き出すのか、「どの方向へ」可能性を伸ばすのかについて何も語っていないからである。

教育哲学者はもっと教育の目的について論ずるべきだ。しかし現在の教育哲学者はそのことについて非常に臆病になっている(教育のシニシズム)。その背景には、80年、90年代に広まったポストモダン論の影響があるだろう。

近代以降、ポストモダン論以前は、時代により移り変わってはきたが、教育の目的は今よりもより確かな形で存在してきた。例えば、近代初期のコメニウスの頃は「神」が教育の目的であった。啓蒙主義の時代には「理性への啓蒙」。国民国家が出てきた時代には「国民の形成」が教育の目的として掲げられた。
しかし、ポストモダン論以後、教育哲学者はその目的を語ることにすっかり及び腰になってしまった。ポストモダン論があらゆる規範・価値観を相対化してしまったことで、「教育の正当性や方向性を決定づける最終的な足場はない」(113)ということを暴露してしまったからである。

教育学におけるこうした事態は、第二章にある実践的教育学の役割が衰えていることを意味する。実践的教育学の範疇である、「こうすべし」「こうあるべし」という規範を創り出す力が弱まっているということである。

教育学者が教育の目的・規範の言説を避けることにで、そこに空白が生まれた。その場所に教育の事を良く知らない部外者が踏み込んできた。経済界と保守勢力である。経済界は、教育の目的に競争原理や経済的成長といった価値観を置く。いわゆる「新自由主義」の潮流である。もう一つの保守勢力は、伝統的な価値観や共同体的な価値観を教育の目的に据え、愛国心や道徳を強調する教育を重視する。いわゆる「新保守主義」である。(この二つとも、社会の安定・発展と子どもの幸福をわかりやすく繋げている点がやっかいである。)

ポストモダン論と同時期にもう一つ、教育思想を揺るがしたものがある。それは消費者資本主義的な考えである。その考え方では、教育はもはや「サービス」として捉えられ、保護者や子どもはサービスの受け手=消費者という立場になる。ここにおいて、教育の目的や「あるべき教育」を設定するのは教育学者や教師はではなく、消費者である親や子どもである。つまり消費者のニーズに応えるのが教育であり学校ということになってしまう。はたして、それでよいのだろうか?

とは言いつつ、教育の目的について言及することは複雑で難しく、さらに時には危うさも孕んでいる。なぜなら、教育の目的を確立しようとする際には、必ずそこにイデオロギー性が入り込むからである。したがって、教育の目的が一つの絶対的なものとして確定するのは非常に危うい(教育のドグマ)。そのことによる失敗をわれわれは20世紀に経験してきた。(全体主義、ファシズム、軍国主義や社会主義国家など)
教育の目的が絶対的なものになることの危険性を認識しつつも、それについて語ることの重要性を自覚し、勇気をもって論じる――これが、現在の教育学者に求められている事である。


最後に、教育の目的について二人の教育思想家の見解を紹介する。
一人目はデューイである。デューイの主張を要約すると、彼は「教育の外部から教育を支配する」教育の目的の存在を認めない。教育の目的は、目の前の子どもの様子に応じて教育者が随時適切に設定するものである。その上で、その方向性を大きく3つ挙げている。
一つは「自然に従う発達」を目指すこと。二つ目は「社会的に有為な能力」を求めること。そして三つ目に「教養」である。さらに、この3つのバランスが大事だとデューイは強調している。この考え方をもとにすると、「教育のシニシズム」と「教育のドグマ」のジレンマを乗り越えることができるかもしれない。
ただし、この実現には教師の能力、教養、人格に頼るところが大きい。

もう一人の教育思想家はドイツのシュライエルマッハーである。彼は、まず一方で「子どもを国家の現状に対して有能かつ適任であるように育成すべきである」としつつ、同時にもう一方で「教育が完了した後には、その子どもが共同生活のあらゆる点で不完全性を改善しようという衝動と才能を有するようにすること」を教育の目的とすべきである、と主張する。
シュライエルマッハーの議論も、現在のこの不完全な社会と不確定な未来を見据えた上で魅力的な見解である。つまり、子どもたちに一方では現在の社会への適応を促しつつ、彼・彼女らがいずれ主体者として、社会をあるべき姿に作り変えていく力を身につけさせよう、という考えである。


5. 教育学を考えるために
 (教育学の学習者のための読書ガイドのため要約割愛)

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