ルッキズムの周辺〜2020.8.8

ひと月くらい前に某モデルの方がルッキズム批判をして話題になった。話題になり、論争になった。論争になるということはすなわち、ルッキズムが完全に悪なのではなく、同時にアンチ・ルッキズムは完全に善でもない。(でなければ論争は起こらず、一途に合意に達するはずだ。)そこで、ルッキズムをめぐってどんな議論ができるか、今日はいくつか考えてみた。以下は論点を提示するものであって、主張ではない。

ルッキズムと行動主義心理学

ルッキズム批判は「内面を見てほしい」とか「心が評価されるべき」という言説とともに発せられることが多い。ここでいう「内面」とか「心」といったものを研究対象にするのが心理学だ。

心理学の立場の一つに、行動主義というものがある。行動主義とは、人の「心」というのは実態のないもので、客観的に評価することはできないのだから、「心」の表出である行動にのみフォーカスすべしという考え方だ。

これをどのように反駁するか、というのはそのままルッキズム批判に転用できよう。とはいえ、精神分析に明らかなように、供述をもとにして「心」を観察しようという学術的な試みは信憑性に欠ける。精神分析が秘教的な治療法として、あるいは一つの仮説としての価値は十分にあるだろう。しかしながら、そこには多分に神話的要素・イデオロギー的要素が含まれている。我々人類は未だ「心」にはたどり着けていない。ルッキズム批判はここを処理しなくてはならない。

心の哲学

上の論点と被るが、心を研究する哲学の分野がある。古代ギリシアの時代から現在までその歴史は長いが、未だ解明されたと言うには程遠い。何だかわからない「心」というものを持ち出して議論するのは困難である。

「ルッキスト」の不在

ルッキズムという言葉はある程度浸透している。冒頭で述べたモデルの功績も大きいだろう。しかし、ルッキストと出会ったことはあるだろうか。「私はルッキストであり、人は外見だけでしか判断しない」というのは完全に間違っている。倫理的に間違っているというよりはむしろ、実際的に間違っている。外見が一つの重要な手掛かりになりうるにしても、それで他者を完全に理解することはできない。試しに、街ですれ違う他人が「犬派か猫派か」を当てるゲームをしてみてほしい。

ルッキストがいないとすれば、ルッキズムとは誰のどんな考え方のことを指しているのだろうか?

外見コンテストについて

この動画で、ミスコンに関する議論がある。上智大学は、外見で順位を決めるイベントを廃止したらしい。

ミスコンがルッキズムの俎上にあるのはおそらく間違い無いだろう。だが、ルッキズムが倫理的に間違っているとしても、それがミスコンを禁止する理由にはならない。格闘技の試合を考えてみよう。それは言うなれば「暴力至上主義」の場であり、マトモな現代人ならば到底受け入れられない態度だろう。しかし、暴力至上主義はリングの上でのみ容認される。参加者は皆、そのルールを受け入れて自ら参加している。

この仕組みはミスコンと何が違うのだろうか。ミスコンというイベントは(参加者・観客を問わず)任意参加であり、そのイベントの中でのみルッキズムのスタンスが展開される。ミスコンが盛り上がったからといって、たとえば学生の成績が容姿に基づいて付けられることはないだろう。ボクシングの試合が盛り上がって暴行事件が増える、というのがないのと同じではないのか?

おわりに

まだまだ論点はありそうだが、今日の私の思索の成果はここまでだ。意見があればぜひコメントしてほしい。実のところ、何が問題になっているのか、皆目わからないのである。アイデアを頂戴したい。

最後に、某モデルを指示するような意見を述べるとすると、彼女の批判はルッキズムではなく、勝手にノミネートされたコンテストに向けられれば十二分に正当だったのではないか。参加する意思がないのに勝手にランキング付けされ、無断で写真を転載された。これは明らかに肖像権の侵害だ。それに対して批判するのは真っ当である。なにせ、法律上ダメなのだから。それは倫理的な問題ではなく、司法的な問題だ。倫理や正義やマナーといったある種の不文律を、あるいは真善美のような問題を、我々は十分に根拠を持って論じることはできないのではないか。

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