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①隔離生活(2022年2月)~日本へ

プライベートな理由で急遽、日本に一時帰国した。
日本への帰国は、コロナが出始めた初期のころに、チケットまでとっていたのにあきらめた経緯がある。そこからすでに2年以上がたっている。
そういう意味では、もちろんいつでも可能ならば日本に一時帰国したいと思っていた。
が、デルタ株~オミクロン株という流れの中で、特に日本はヨーロッパからの帰国者に対する隔離が厳しかったし(隔離6日+自主隔離1日)、外国人が入国できない状態(=夫が一緒には来られない)だったから、まだもう少し先だな、と思っていた。

ところが、なりふりかまっていられない事情ができた。それも、長期に滞在する必要のある事情だった。
幼児を連れての6日間の隔離は気が重かったが、覚悟を決めた。
私のブースターと子どもの予防接種、その他のスケジュールを調整し、出発前の隔離期間1週間(確実に陰性証明を得て出発するために、子どもを保育園に連れていくのをやめ、人との接触を断って家にこもる期間)を加味したうえで、最も早くに出発できる日にちで航空券をとった。

ここから、私の胃痛が始まった。
とにかく出発まで絶対に感染してはならない。
子どもを保育園に連れていくたびにドキドキした。こんなにドキドキするんだったら、もう子どもを保育園に連れていくのはやめようかと思ったくらいだ。

特に、私の住むベルリンでは、オミクロンがピークに向かって猛威をふるっている最中だった。つい数週間前までは、感染は知り合いの知り合い、友人の知り合い、友人の親戚、の話だったのに、この頃には直接の知り合いや友人たちがどんどん感染していった。もう誰がいつ感染してもおかしくない状態だった。

とはいえ、子どもにはできるだけぎりぎりまで「普通の」生活を送らせてあげたかった。それに、私も仕事だったり、帰国に向けた準備だったり、自分のペースで片づけたいことがたくさんあった。

ただ、この間にひやっとすることもいくつかあった。
ひとつは、招待されて一緒に夕食を食べた家族の子どもが後に陽性になった、というものだ。子ども同士は夕食の数時間前から一緒に遊んでいたから、もしもその子がその時点でウィルスを持っていたとしたら、うちの子も感染した可能性がある。ただ、オミクロンの場合、2日遡って接触がなければ濃厚接触者にはならない。その意味では、公式には、私たちは濃厚接触者ではなかった。
結果、私たちは誰も感染してはいなかったが、数日間、ドキドキした日々を過ごした。
もう一回は、子どもの保育園の最終日。その日は朝からとてもドキドキした。これが変な胸騒ぎなのか、単に私が心配性なだけなのか、もうなんだかよくわからなかった。ただ、これでうちの子が本当にウィルスをもらって帰ってきたら、私はすごく後悔するだろな、とは思った。
一方で、子どもの保育園の最終日を、親の過度な心配で台無しにしたくないという気持ちもあった。それに、その日、うちの子は親友の誕生日パーティーに招待されていて、そこではどっちみち5-6人の子どもたちと接触することになっていた。それまでをもキャンセルするつもりはなかったから、あまり神経質になることはない、今日をなんとかやり過ごせばいいのだから、と自分に言い聞かせて、子どもを保育園に送り出した。
すると、しばらくしてママ友からメールがあった。保育士に陽性が出た、とのことだった。
ただ、もし重大な事態だったら、すぐに子どもたちは自宅隔離となるはずだ。そのまま保育が続いているということは、その保育士と接触した子はいなかったということではないだろうか。
そのころにはなんだかもう覚悟が決まっていて、そのニュースには私はたじろがなかった。実際、子どもたちに話を聞いたら、その保育士は朝少しだけいて、すぐに家に帰ったという。うちの子は朝遅めに行ったから、その保育士のことは見てもいない、ということだった。
ほっとしたが、要するにこんな話が当たりまえの状況だった。

子どもと家で過ごす出発までの1週間は、ひとまず最大の感染リスク(=保育園)が消えた、ということで私は気が楽になった、、、、はずだった。が、今度は、それまで普段あまり気にしていなかった、買い物までの道などでもマスクが外せなくなった。子どもにも、それまではあまりうるさくマスクをするよう言ってこなかったが、スーパーに入るときや人通りが多いところではマスクをさせた。とにかくPCRで陰性が出るまでは、気が抜けない、と思った。

だから、PCRでようやく陰性がでたときは心の底からほっとした。このためだけにあった1週間だった。

事前にオンラインチェックインを済ませたものの、空港でも混雑具合がわからなかったから早めに行動した。14時に空港に着くまで空腹も感じなかった。コロナのためのイレギュラーな手続きがすべて本当にスムーズにいくかどうか不安で、緊張していたのだと思う。
本当に気が楽になったのは、フランクフルトからの国際線の搭乗口にきちんと到着できたときと、飛行機に乗り込んで、ガラガラだということに気が付いたときだ。これなら、もし乗客に感染者がいたとしても濃厚接触者になる可能性は低い。もちろん、私はマスクをするが、子どもに長時間のマスク着用を強いるのは明らかに無理だったから、前後左右に人がいたら嫌だなと思っていた。

うちの子にとって、物心ついてからはじめての飛行機。最初に「ママと一緒に日本に行こうか」といった時は、「飛行機が怖い」と言っていた。
不安を取り除こうと、YouTubeなどで機内の映像をみたりもしたが、出発が近づくにつれ、心因性頻尿のような状態になっていった。なんとか日本行きを楽しみにしてもらえるよう、日本に行ったら何をしたい?何を食べたい?と聞いて、カニー!イクラー!こたつー!と盛り上がってみたりもした。

うちの子にとって、日本行きは決して悪いことばかりではないはずだった。特にコロナ予防措置によって、プライベートで遊べる友だちが限られ、保育園内でも仕切りが設けられて自由に遊べない、習い事などもってのほか、という状況の中で、日本のほうができることが多いかもしれなかった。実際、ドイツのロックダウン中-子どもたちがまともに保育園や学校に通えない時-に子どもを連れて日本に一時帰国し、幼稚園に通わせていた人などもいた。私にはそれはできなかったが、まともに保育園に通えない、友だちと思うように遊べないこんなドイツの日常から、子どもをとにかく早く解放してあげたい、とは常々思っていた。

でも、「こんな日常」でも、いざ引き離すとなったら、忍びない気持ちになった。制約があったからこそ、接触のある友だちたちとはかつてないほど強いつながりができた。うちの子は初めての、プライベートでもよく遊ぶ親友ができ、それを通して、私も仲良しのママ友ができた。定期的に子どもを預け合ったり、家族ぐるみでつきあいをするようになった。誕生日パーティーではお互いを招待しあって、盛り上がった。
そういった人間関係から-一時的とはいえ-親の都合で引き離すことは、なんだかかわいそうだった。

でも、私の心配をよそに、子どもは上手に気持ちを切り替えてくれた。自ら「日本に行きたい」とまで言うようになり、飛行機内でも窓際に座って、きらきらした目で外を眺めていた。
ただ、パパが一緒ではない、ということはとても残念だったようだ。空港では、泣いてお別れをし、飛行機で配られたチョコレートを、パパの分、といって自分のリュックにしまった。私はそんなことにいちいち胸を痛めた。


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