無血戦争

 いよいよ、戦争が始まる。僕はソファに背もたれながら、テレビのチャンネルを国営放送に切り替える。ライブ中継先である自国の西端、ポンパドゥ島は暗く、人の気配はない。音声はまだこちらに届いていないようだ。
 期待と興奮を削がれた脱力感に、僕は見舞われる。視線をテレビから、スマホに写し、オンライン仮想空間【AndU】を覗くと、世界トレンドに勝者予想のハッシュタグが昇っている。大方の予想では、どうやら国土が広く、高い技術を誇る相手国が勝つと思われているようで、それは自国の国民ですらそう思っている人間が多数だった。ネットはお祭り気分。言い換えれば、誰も戦争に加担していると思ってはいない。
 それもそうだ。古い映画で見た切迫感や罪悪感はない。なんなら僕には競技に見える。なぜなら、もう戦争で血は流れないのだ。現代の戦争に人間は参加しない。機械と機械のぶつかり合い。もちろん裏では人間が率いてはいるが、矢面に立つのは情報とテクノロジーで構成された物体である。最後に血が流れたのは数十年前で、国際法でも人と人とが殺し合わない戦争なら罪にはならない。
 もちろん、負ければ領土を奪われる。自国の文化や歴史を踏みにじられるだろう。けれど現代において、植民地にされることが必ずしも悪いことばかりではないということを近年増加している戦争から感じている。先進技術を持った国の一員になれ、資本が流れ込み、意味のわからない慣習からも解放される可能性だってある。実際、先進国に敗れたことで異常な発展を遂げた途上国がいくつもある。
 血塗られた戦争の歴史は、技術の進歩と各国のプロパガンダによって上書きされ、いわんやエンターテイメント性をもたらし、利権闘争に人間が巻き込まれるのは許されないという理由で戦争に反対だったリベラル達の反対の口を封じた。当初、『愛国心』を貫こうとした人もいたが、人が死なないのであれば(自分が傷つかないのであれば)と仕方なくその鞘を収める人がほとんどで、『戦争はしてはいけない』という価値観はあっけなく翻ったのだった。
 無血戦争は、自国の経済に恩恵ももたらし、国の発展にも貢献した。軍事費の国家予算が増え、電機メーカーや自動車メーカー、化学メーカーなど、多種多様な業界の企業の株価が上昇し、戦争する二国どちらもデータ上では好景気になっている。今では戦争に反対する人のほうが少ない。
 現代ではどこの国民も、自国は、『今の自分がたまたまいる国』ぐらいの認識に近い。いろいろなものが選べる時代になっても、生まれた国籍だけは選べないのがグローバル社会の限界だったが、それを唯一、面倒な手続きなしで覆してくれるのが戦争だった。
 途切れ途切れの音が聞こえだし、僕はテレビ中継に目を向ける。所々に動く機械のランプが見える。ミサイルの発射準備が整いつつあるのだろう。自国が宣戦布告してから、あと2分で回答期限を迎える。つまり、相手国が何もしなければ2分後にミサイルが発射されるということである。僕は新年を祝う気持ちに似た、胸の高まりを隠せないでいた。しかし、何に興奮しているのか、実は定かではない。ミサイルは花火ではないはずなのに、人間が関わらないだけでこんなに解放的になれるのか、と僕は初めての戦争への感慨に浸る。領土、主権、文化。きっとこの戦争には負けるだろう。僕が失いたくないものはなんだろうと考える。戦争に負けても、無形文化財は残り、暴力的な支配にはならないだろう。腐敗した政治は消え、先進国の教育、先進国の言語、先進国の歴史を叩き込まれて、僕は嫌だろうか。自分の部屋はこんなに世界の他文化で彩られているのに。
 僕は、負けても勝ってもどちらでもいいと思った。だからこうして戦争を待ち遠しく楽しめるのだと思った。僕は、戦争に負けても勝っても、どちらでもいいと思える国にいるのだ。それはずいぶんと自分勝手な気がしたけれど、胸の内は晴れやかだった。

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