もぬけ

 散乱したキッチンで、マリアンはひとつため息をついた。会話を邪魔しない程度に鳴っていたクリスマスナンバーが虚しく響き、空いたビール瓶、飲みかけのワイングラス、油まみれの平皿と、保存するには少ない量のラザニアがまだ香りだけを残し、部屋を満たしていて、今日のディナーのために用意したターキーは脂身の少ないテンダーロインの部分だけがしっかり残っている。
 これをすべてひとりで片付けるには、骨が折れる。今更彼女は、妹夫婦と両親、そして祖父と祖母の旅行についていかなかったことを後悔した。彼らは年明けまで帰ってこない。その分、家はガラ空きになり、マリアンが独り占めにできるわけだが、彼女だってそれが特別楽しく感じるほど若くはなく、彼女が家族旅行を断ったのは、26日のボクシングデーに彼氏であるニックとデパートへ買い物に行く用事があったからだった。
 彼女のため息の原因のひとつもそこにある。
 あった、という過去形で語ったからにはおおよそ予想がつくだろうが、今の彼女にとってその予定は失われた未来であり、ニックというイギリス系カナダ人も指折り数える男のひとりとなった。彼女は昨日、見てしまったのだ。ニックが別の女とスーパーで買い出しをしているところを。
 結論が決まっているのに、ここで改めてそれをほじくり返すこともないだろう。そのスーパーで彼にテキストを送り、嘘をつかれ、彼女が失望し、そのまま全ての思い出が詰まったグーグルフォトのアルバムを消去し、彼に真実を伝え、別れを告げたのは割愛する。大切なのは、今なのだ。
 
 彼女はシンクをぼんやり見つめながら、これからの予定を考える。ニックがいなくなったとはいえ、ボクシングデーは存在し、身軽にどこへでも行けることは少しばかりの幸運に思えた。ニックはときおり露骨に待たされるのを嫌がるし、彼はそもそも服や雑貨になんて興味はない。彼が欲していたのは本だけだった。彼はよく言った。「本を読んでるからってインテリなんて言われるのはごめんだよ。インテリなんて頭の固い無意味な人間さ」そしてこうも言った。「無知なのに行動できる人間が最も本質的価値のある人間だと俺は思うね」
 結局その「行動」とやらはマリアンへの裏切りになったわけで、彼女は思わず苦笑する。後ろにまとめた髪が揺れ、シンクに一粒の水分が落ちた。彼女は笑いながら泣いていた。涙は、ぽたん、と音を立てて緩やかなビートを刻み出す。彼女の肩が揺れ、鼻をすする音がテーブルのワイングラスに感情の渦をもたらす。彼女は膝から崩れ落ち、そのまま横になった。床には油となんらかの野菜の破片が彼女の周りを囲んでいたがマリアンは動くことができなかった。家族を見送るまで、彼女は必死で堪えていたのだ。ニックを彼女は愛していた。ニックの名前が口から零れるのは仕方のないことだろう。「ニック、ニック……」それはここ数年で最も発した言葉であり、その重みと意味はまるで自分の名前と同等のように思えた。零れる言葉の先で、彼女はニックの記憶を消さなければならないのに、そのためには記憶を思い出さねばならない。戦慄のパラドクス。拷問のアンビバレンス。彼女は目を瞑ることにした。すべてを放棄して、明日の自分に託すことにした。
 そしてそれは賢明な判断で、旅行に行かない決断も英断だった。
 神は決して彼女を見放したわけではなかった(彼女は無神論者だが)。
 なぜなら次の日、彼女はデパート1階のティム・ホートンズで、本当の運命の相手を見つけることになるのだから。それも似たような境遇の、無神論者の、自分から話しかけてくる(つまり、自ら行動できる)男、マシューを。

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