どこか行きたいから、「わしらは怪しい探検隊」って本でも読もうぜ

 今住んでいる首都圏、関東地方は梅雨入りしました。雨の日が続いて憂鬱です。

 散歩や買い物も億劫なので、読書することにしました。

 というわけで、今回はこの一冊。
 余談ですが、椎名誠さんとの出会いは、中学生の時に、おとなしそうな同級生の女の子が読書の時間に読んでいたことがきっかけです。はまるとどんどん読んでしまうので、椎名さんの本は何冊も読んだ覚えがあります。
 もしこの本に出会わなかったら、この世は思ったより広いらしい、と思うことはなかったかもしれません。行動範囲が相当限られていた中学生の時に読んだので、余計に感動したのかもしれません。

 この本の良いところは、とにかく文章が軽くて読みやすい。椎名さんの文章は「昭和軽薄体」と呼ばれていたらしいですが、重苦しい世相の現代にこそ、このようなユーモアのある軽妙な文章がよいのではないだろうか、と思う。昨今のキャンプブームにもハマりそうな内容でもありますし。(かわいらしい女の子などは一切登場しませんが)

「東日本何でもケトばす会」とはいかなる会であるか、というと、会員の何名かに肉体的金銭的余裕ができ、気圧配置も安定して、空を見上げたときの気分もなかなかよい、という時期を見つけては、みんなでエイヤッという具合に日本のさまざまな離れ島にでかけてしまう、という事を主たる業務としているのである。 
 しかし、ただみんなでぞろぞろ離れ島にでかけ、だらしなく笑って酒をくみかわす、というのではあまりにも未来に対する展望が欠けている、と思われるので、離れ島では天幕を張り、水はそのへんの湧水(わきみず)をみつけ、海、山、平地から食料を調達し、夜ともなればうま酒ビールのみかわし、ドンパン節をうたい星を見つめ波の音きいて、ともにすごした幾年つきか、よろこび悲しみ眼にうかぶ、というような、まあいささか後半はキザな描写ではありましたが、一応は全体的にこのような魅力的な状況というものを追求しようという外角高目の理想に燃えている組織および集団なのである。
「なぜ『島』がよろしいのであるか」より

(ドンパン節を知らなかったので、調べてみました)

 最近、うっかりしているとSNSなどで心荒むような文章ばかり見かける事が多い気がするのですが、堅苦しく漢字ばかり使っているわけでもなく、変な造語が出てくるわけでもなく、こういう軽妙な文章こそ、読みやすい文章なのではないかと思う。読みやすいというより、内容も含めて読んでいて気分がいいのではないだろうか。

 なぜ、離れ島に行くか、という問題については、別に深い民族学的理由や地理地質学的な理由はないのだけれど、目下、考えられる理由のいくつかを簡単にわかりやすく申し上げますと、これは要するになんですね、小さな島というのはなんとなく「くみしやすし」というようなところがあるわけなのです。(中略)
 たしかに日本の離れ島というのは小さいのがまことにこまかく点在していて、そこに住んでいる人々の数はひとつの村という単位より小さな集落がかろうじて島の一か所にへばりついている、という場合の方が多い。
 例えば九州の屋久島からずっと南の海に向けて散らばるトカラ列島の平島や悪石島などは、どちらもここ数年人口は二百人以下であり住人は年々歳をとっていくばかり。
 また八丈島のはるか南方にある青ヶ島は東京都に属している島だが、人口は三百人。連絡船が月一回来るか来ないか、というすさまじいところだ。
 島根県益田市の沖わずか十数キロのところに浮かぶ高島は島の周囲四キロで人家は十数戸、人口にして四十人足らずである。
 こういう島では同じ日本人といっても、世界観や生活観はまったく違っているし、第一まともなやりかたではうまく言葉も通じない、ということもある。
「なぜ『島』がよろしいのであるか」より。文章中の数字は原文のまま。現在は変わっている可能性あり。

 なんだかワクワクしてしまうのは気のせいでしょうか。こんなところもあるんですよ、と言われた気分である。

 中学生の時に比べたら行動範囲は広がったわけですが、この本に書かれているようなようにはいかないのが現実でして、まあでも読んでよかったな、と思っています。

 書いていて思い出したのですが、この本を山登りが好きな友達(一緒に高尾山とか伊豆大島とかに行った)に勧めた覚えがあります。元気にしてるかな。


夕陽に似合う食べものといったらその最高は粟島のわっぱ煮である。
「絶叫山田くんは粟島の夜空に砕け散った」より

 わっぱ煮ってちょっと食べてみたいですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?